Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

「重なり合い」について

松澤宥さんの「人類よ消滅しよう 行こう 行こう 反文明委員会」における人類とは何を指しているのでしょうか。

 

普通考えて人類は他の動物と区別された存在としてのこの世に生きる人間全てを意味しています。しかし人類といっても国家、民族、文化、宗教、社会、地域、都市、農村、内陸高地、海岸低地、環境、生活様式などによって様々であり一つに括ることには難しさがあります。

そこで最近、NHKテレビで見た哲学者ガブリエルさんのいう「世界という全体はない」世界を「領域が重なりあう編み細工構造」という考えを人類に援用して解釈すると有効のよう思います。

 

Webより引用し青字の部分が私が付け足した部分です。赤はガブリエルさんの言葉を強調したもの)

 

ガブリエル氏の言葉の世界を人類に置き換えて見ます。


世界(人類)とはこの地球に存在するもの(人間)全体のこと、多くの人がそう思っている
ホントにそんな全体はあるか?
例えば物の数はスケールによって答えが変わる
客観的な人類全体など存在しない


「現実は個別のものが重なり合う網のような場」→現実は国家、社会、市町村、会社、個人一人ひとり、あらゆる価値観など個別のものが重なり合う網のような場である。

人類全体を見渡す神の視点など期待することはできないのだ
人類という全体性(totality)を脱すれば新しい思考が生まれる
私は全体性とは反対の考え方を提唱する

 

人類という全体がないからこそ重なり合いが可能である。
思索する人々による理性的な社会をつくる、それが唯一の希望だ
冷笑的で反民主的な態度に出会ったらノーと言おう
自由に考えることに最上の価値を置こう

 

図は「構造と力」浅田彰 1983発行236pより

私はこの散乱のモデルを造形過程の分節化に援用して論を組み立てました。

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多数多様な散乱というのは好きな方向に散乱していくだけということではもちろんなく、この重なりの具合、重なりの形を捉えて考えることが重要であるということです。

ということですが浅田彰さんは最近はあまり話題にならないです。このモデルを現実的に使用していく応用方法の提示がその後不十分だったからでしょうか。ともあれ、浅学菲才の小市民の考えでは現在進行形で話題のガブリエルさんの「新実在論」の考えは特別に新しいものとは言えないようです。

 

1992年の「えひめ美術教育フォーラムイン道後」で発表する際にまとめた私のレポートより。ここで美術教育の教科性を捉える基本的な考え方について手短に述べています。この2年後、私は教頭になりました。私の美術教育論はここで終わっていました。

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全ての美術教育的要素、全ての考え方というものではなくいくつかの視点(上記の場合 IMTSの4つ)によってあぶり出される要素をもとに考えそれなりの結論(指導支援の視点)を導き出す。そしてそれをまた別の視点で篩にかけるという永久運動的な追求の努力が大切であるということです。

 

最初のテーマに戻ります。松澤さんのこの作品を世界各地のいろいろな人々に見ていただいて反応を伺って見ることが大切でしょう。観念芸術というものが土台から通用しない場合も多いでしょう。結局、中ザワヒデキさんの言うように松澤作品は「鑑賞者を選ぶ」ということになるのですが、「人類」に呼びかけているわけで、最初から矛盾していることになります。それは仕方ないということという結論から松澤論が始まるわけです。

 

来月8日からNYのjapan Society GalleryのWildness展で松澤さんとご一緒します。先日の長沼宏昌さんの個展など、これからも松澤さんの作品に向き合うことが続きます。浅学菲才の凡庸な頭ですので吸収できるのは万分の1で良いです。学ぶ姿勢で向き合い続けます。