Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

20230911

⭕️

 

美術教師と作家の両道を紡いで-5

堀川紀夫(Horikawa Michio)

 

7 管理職への昇任とリタイア以後

97年に選考試験に合格し教頭に昇任。渉外事務、学校後援会の運営、地域指定された研究大会事務局、郡PTA研究大会事務局、県美術教育連盟研究会での全体発表、県教頭会の研究発表、勤務校の周年記念事業などで教諭時代とは別種の多忙な日々が続いた。その5年後に校長に採用されてからは学校運営の傍でオリジナル備品のデザイン等が数少ない美術実践の場になった。

体育祭で使う鋼鉄製の「小型聖火台」、周年記念事業の「タイムカプセル・モニュメント」、校名のイニシャルを角柱で造形してあしらった「イニシャル・ベンチ」、など。また子供たちとふれ合う方法で「マスコットinエデケーション」を実践。校長室に親しみやすいマスコットを置いて子供の休息の場にし、講話ではトラのぬいぐるみをモデルに「トラの皮自慢」の説話をとりあげるなどアートのセンスを生かすことに心がけた。

 

90年代の中頃から各地でアートイベントによる地域興しの動きが始まり、私にも作家としての出番が回ってきて、教員の忙しさにかまけて一時停滞していた作家活動に展望が開けて行った。2001年までの間に3つの大きな展覧会へ参加、出品することとなった。

 

2000年 新潟市で開催された「アジア現代美術展」へ宇都宮市美術館長の谷新に選ばれて招待。雪国ならではの表現「Snow Performance」シリーズを出品。

 

2000年 北川フラムアートディレクターによる越後妻有アート・トリエンナーレ2000 第一回大地の芸術祭へ招待。松代ギャラリーロードに野外展示する機会を得て新領域に越境。バス停近くにARTの文字を等身大に彫刻してあしらった木製の「アートトリエンナーレのためのベンチ」を出品。

 

 

2001年 美術史家富井玲子キュレターにより「石を送るメールアート」が英国Tate Modernのリニューアルオープン記念のCentury City展に招待されることになった。日本の近代が成熟期を迎えた60年代〜70年代を代表する作品の一つに選ばれた。雑誌アクリラートNo32がNY在住の富井の目に留まり、拙作を知る機会になったと聞いている。

この出品の機会に同作品の意味が全く色褪せていないことを再認識して再開し、旧作4点に新作を2点出品。1点は日英の戦争に因む真珠湾攻撃メモリアルの12月8日に、もう1点は21世紀の初日の1月1日に世界平和への願いを込めてTate館長宛で送り、無事届いた。 以後、石を送る意味を見つけて継続実践してきている。

これらの展覧会への参加、作品評価を経て、表現領域を横断することなどで自由に柔軟に発想し追究するようになったと考えている。

 

2001.9.11米国で同時多発テロが勃発。世界は新たな戦争の時代に突入した。その言葉にし難い衝撃。それを作品化して昇華せずにはいられなかった。そこから旧作のゼロ円切手と同じ発想で映像をPhotoshopで加工し、メールで発表することを旨とするE-Stamps Seriesを展開するようになった。

 

2005年には、9.11の当日にNY在住の富井玲子によって撮影されたWTCビルの写真の背景に写されていた美しい青空とかつての広島・長崎の原爆投下時の青空とをリンクさせて平和を表現する「Blue Sky Project国際美術展」の企画を立案。

翌年に教員をリタイアし、その「Blue Sky Project国際美術展」を地元上越市で開催。そのことにより自らの作家活動の再出発、新たな飛躍をめざした。それを以後5年連続開催。インターネットの良さを駆使し、総計して国内外500名以上の参加を得た。

なお小中8ケ校に同プロジェクトの趣旨に基づく題材の開発を依頼。8ケ校で児童生徒による図工美術での平和表現を実現。翼に平和へのメッセージを記した「平和折鶴」などの新たな題材が開発された。これが私の教育実践の最後に位置している。

 

続いて2004年10月に新潟県で起こった中越地震からの復興を願い、2008年の冬から「雪を生かし、雪を楽しみ、被災から元気に立ち上がろう」というコンセプトで大地の芸術祭「雪アート・プロジェクト」が開催されることになった。そこで雪国の生活文化の遺産である山ぞり(大ぞり)をアートとしてリニューアルし、訪れた人々を乗せて滑走する「山ぞりプロジェクト」を提案。今冬までに地域の有志との「協働的創造活動」として連続実施されてきている。この協働において作家として前部に立つことではなく後部から支援し地域の人々を主役に押し出すことの重大さに改めて気付くことができ、私の中に「後衛主義」という概念が生成した。



2008年に前山忠と2人で美術活動40年の節目に「新潟現代美術家集団GUNの軌跡」を自費出版。出版記念のGUNの回顧展を長岡のギャラリーmu-anと東京のスペース・トキで開催。

そこで「雪のイメージを変えるイベント」について富井玲子から小論「GUNを〈世界〉に着地させる試み」を書いていただくことができた。それは、その後の作家活動への大いなる励ましとなった。

翌年に前山と市橋哲夫との3人でその「雪のイメージを変えるイベント」の記録と記憶を歴史に定着させるためにポートフォリオ集を30部限定で発行。主な国公立の美術館に収蔵していただくこともできた。

 

2009.7.21「石を送るメールアート」が 40 周年を迎えた。国内の個人へ3個、米国の2つの美術館へ各1個送った。米国の1個は無事に届いたことが後日判明。もう1個は行方不明となっている。

  

2009年の第4回大地の芸術祭では、応募が通り松之山地区の大厳寺高原キャンプ場に「Sky Catcher’09 」と」名付けた上空を鏡に写して見る異体験のための巨大な鏡を設置することができた。その構想はジェームス・タレルの光の館の「空を切り取って見る作品」を捩って「レンタル・タレル」と名付けた小型キットの構想から生成したものだった。



2011.3.11に東日本大震災が発生。あまりの被害の甚大さにアート表現への意欲を一時失う。気を取り直して全国の作家に参加を呼びかけて「復興支援チャリティ展」を企画し、1年かけて県内を縦断し5カ所で開催。その利益を震災で家族を失った児童生徒への奨学資金に寄付させていただいた。

 

2012年には新潟県立近代美術館で「GUN―新潟に前衛があった頃」展が開催された。前述の2つの自費出版が生み出した大きな成果と捉えている。この図録に富井玲子より「〈GUN〉における国際的同時性 ―― 新潟、日本、グローバルに考える」との論文を寄せていただくことができた。GUNの足跡が世界に広がる文脈の中で息を吹き返してくるように思えた。

 

その後、2015年の「雪アート・プロジェクト」で雪を結晶の六角形で表そうと平面と立体を組み合わせながら構想する過程でTensegrity原理に出会い、それをWeb学問と自学でほぼマスターすることができた。以後、その原理が内包するエコロジーへの適合などの利点に基づきシリーズとして展開を続けてきている。



2016年に富井玲子が「Radicalism in the Wilderness」を上梓。日本の1960〜70の美術に焦点を当て諏訪の松沢宥、関西のThe Playに並んで新潟GUNの活動とその成果、数々の拙作などが英文で世界発信された。

それを発刊直後に読んで、アポロ計画に因んだ「石を送るメールアート」について、国立科学博物館での講演で来日した宇宙開発の歴史の研究家Teasel Elizabeth Muir-Harmonyからインタビューを受けたことは私のアートの歩みのエピソードの筆頭である。

 

 

⭕️

一昨日の直江津散策の続き。琴平神社、舟見公園近く。

大神宮、とても広い駐車場が隣接していました。

⭕️

雨が降ったためか朝顔がたくさん咲いてくれています。

⭕️

昨日の夕食。高い秋刀魚を食しました。

 

⭕️

本日の午前に、直江津うみまちアートの作品撤去を終了しました。

砂丘の上に住宅があるなど、直江津の成り立ちについて少し認識が深まりました。

 

本日はこれにて。