Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

20230910

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美術教師と作家の両道を紡いで-4

堀川紀夫(Horikawa Michio)

次の新作展開に悩む中、71年3月の「言葉とイメージ」展への招待を受けて「石を送るメール・アート」から発想して時の総理大臣佐藤栄作をモチーフに「ゼロ円切手」を発行。続いて「心象や世相写真による絵葉書シリーズ」を展開するなどを試みたが、長続きせずに終わった。

1971.8  アート分野で活動を始めた北川フラム(現在アートディレクターで大活躍)から突然にハガキをもらう。下旬ごろに新潟日報の女性記者に会い、10月に開催予定の「神無月新潟ジャズロックカーニバル」のチケットとポスターの制作で協力することになった。

ポスターは、地元に設立されて間もない品川アートプロ社のシルクスクリーンで印刷。社長の品川博の助力もあり当時流行していたアートポスターのクオリティで仕上げることができた。

 

私の「石を送るメールアート」はアポロ計画に「因む」ことで14・15、16号以降も継続したがその計画は72年の17号で終了。そのタイミングで「因む」ことが立ち消えとなり、私は「石を送るメール・アート」の幕を引いた。

 

1973年の第一次オイルショックで時代が確実に変化。自分の中にも作家活動と勤務しているへき地校の教育課題との乖離から内省の時が訪れた。

そこから生徒と地域に正対する教育に目覚め「地域の伝統に根ざした題材」を開発。村人を襲う尾が二つ割れている妖怪の猫又を退治し地域を救った「牛木吉十郎伝説」を版画表現で追求。その実践を教職員組合主催の全国教研山形大会の県代表に選ばれて発表。その機会に全国各地の美術教育の実例を学び、自らの教師力を高めることができた。このことは生徒たちの自信にもつながったと考えている。

次は生徒数千人規模の学校への転勤となった。教える生徒が一気に20倍くらい増加した。教育労働の急増に苦労しつつ教科部で「生徒の心情にしみいる題材開発」に着手。構想画の「校歌の世界から」、近くの川原の玉石にタガネで形を刻む「石への挑戦」、ガラス瓶などをカプセルにメッセージを詰めて紙塑粘土で外観を整形する「Time Egg Capsule」などを開発。卓球部の顧問としての仕事も任せられ、多忙な日々ばかり続いた。

 

そんな教師13年目に文部省指定の美術科指導法の研究を発表する機会を与えられて挑戦した。指導者の文部省の教科調査官を驚かせようと必死に頑張った。開発したユニーク題材を目玉にした指導計画に「教材のデパート」と評価する言葉があった。そのような教育行政系列の発表とは別に地元の美術教育連盟の一員として各種の美術教育研究会で実践例の発表を積み重ね、また美術教育雑誌に10回以上の寄稿する機会もあった。実践例を積極的に発表することで自己検証と客観化に努めた。   

ユニーク題材を開発することはどの勤務校でも研究テーマとして続行。薄い紙を使ったエアー・アート「軽熱気球の冒険」を題材化。気球が完成し浮かび上がる際は必ず生徒の歓声が湧き上がった。


遊び心を解き放つ「言葉遊びのイラストレーション」も成功例となった。その後、長さ10mの画用紙に学級単位で描く卒業記念画の「卒業のポーズ」、「学年・卒業パズルメッセージ」などの共同作品を開発。これらで美術教師としての指導のメニューを増やし、「個性的な指導計画」を立案、実践してきたことを自負している。それは応えてくれた生徒達のおかげであり感謝を捧げたい。また、40歳代半ばに、5世紀の中国で活躍した謝赫の「画六法」に「写生画」や「風景画」「人物画」が内包する教育的価値及び絵画表現の本質が網羅・集約されていることに改めて気付いて、それまでの狭い美術教育観を悔いた日々もあった。

 

教師としての多忙で充実感ある時期は作家としての発想が枯渇し、両道がバランス良く進まないことが多かった。それでも、頭の片隅にはいつも創作について何か良い発想がないか考える余裕は残していた。

この頃の作品に、アクリル板にインクを引き、その面を顔と頭髪で拭って刷りとる「フェイスプリント」、顔自体をネガに露光しシルエットを写し出す写真作品など、時間が短くて済むボディ・アート作品の制作を試みた。

 

そんな70年代中頃に、地元の北川省一(前述の北川フラムの父)の著作「良寛游戯」を通し新潟県が産んだ江戸後期の名僧良寛の詩歌と書に出会い、その意味世界の広大さに目から鱗が落ちたように感じた。自然との交感、人々への慈しみ、子供らとの遊び、詩歌と書のパフォーマンス性などから自分の美術表現を実践的に捉え直すことができた。

 

その後、しばらくの間突き抜ける発想ができず右往左往する中で「ゼロ円切手シリーズの展開」「太陽光で焼いて描く絵画」「ミョウバンあぶり出しボディ・アート」「地元産石材による山岳彫刻」などの試みがあった。そして1981年の豪雪の際に自宅の裏庭の雪に体を投げ出してその凹型を撮影する写真による作品「Snow Performance」を見出した。身体の重みで凹んだ形象が写真では凸に見えてくる面白さである。その見たことがあるようで初めて見る美しい形象に心が躍る思いだった。この時点で自らの内にメタ・アートの力が身についたと考えている。以後、冬季の降雪状況と何らかの動機付けにより、雪国人のライフワークとして「Snow Performance」を展開してきている。

 

5 時代の変化の中で

 

1980年代に入ってバブル期が訪れ全国各地に美術館建設が続いた。各地で企業メセナによるアート展も開催されるようになった。そんな時代の88年に新潟市の郊外に私立の創庫美術館ができて、県内作家にメセナとして発表の場所が無償提供されるようになった。新たな発表の場所を得て改めて自分自身の創作の飛躍が求められた。そこで当時のポスト・モダニズムの考え方やニューペインティングの波にも乗ってアクリル絵具を使ったレリーフ的絵画に越境を行った。

 

そんな80年代末から90年代初頭に世界の大転換が訪れた。ベルリンの壁の崩壊、ソ連邦の崩壊、東西冷戦構造の時代が終わり、グローバル化、脱中心化、多元化、脱構築などの新概念が時代を賑わした。それらの核心を自己流に解釈し創作に結びつけるために考えたキーワードは「庇を借りて母屋を取る」だった。

 

1985年にワープロを導入。不得手だった長めの文書や論文の作成が飛躍的に向上した。個人にパソコンが普及しICTが日常的に利用される時代となっていった。私がPCに移行しインターネットに繋がってメールを使う様になったのは90年代の半ばだった。情報が双方向的に光速でやり取りされるようになっていった。

1993年に中原佑介のコメントを得て遅ればせながら「Snow Performance」をまとめた小冊子を出版することができた。Faxでコメントが送られてきたことを鮮明に記憶している。作家活動を開始して四半世紀の節目を刻む自費出版だった。そして、その小冊子がNHKに伝わり96年1月に全国放送の人間マップ「先生は雪のアーチスト」への出演という嬉しい展開となった。その際に雪上での「Snow Performance」の一連の行為に加えて「石を送るメール・アート」も放映された。公的な報道機関からアート活動を見つめ直す機会を与えられたことに自信を得て創作への意欲が倍増したようだった。

 

1994年 初瀬部真一コミッショナーにより隣県の富山市の紡績工場跡地の舞台芸術パークを会場とする「Art Edge’94」展へ招待。「深化する近代の意識」の表題に平面に差異を作り出すレリーフ的絵画シリーズを出品。

その後、Edgeというタイトル名を用いてレリーフ的絵画を展開し、またアルミ、ブリキの腐食による版画を試みる。そして飯室哲也、稲憲一郎と共同参画で版画集「汎」を出版。それに伴って銀座と甲府で開催されたグループ展にも数回参加する。この時期は教員の仕事と昇任試験への取り組みで多忙を極めたが、作家活動をあきらめることなく細々とではあるが両道を保持し続けた。

 

続く97年には雑誌ACRYLARTアクリラート・vol.32号で彦坂尚嘉によるロングインタビュー記事に取り上げられた。「石を送るメール・アート」、「零円切手シリーズ」、新潟現代美術家集団GUNの「雪のイメージを変えるイベント」などが美術史的視点から丁寧に跡付けられて記述され評価を受けることができた。自らの活動が客観化、歴史化され、その道を作家生命をかけて最後まで押し進めていく責任が出てきたように感じた。

 

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昨日、直江津の史跡を回りました。

安寿姫と厨子王の供養等。舟見公園近くです。

上越タイムスに出ていた夷神社。鳥居の向こうに海が見えるところが売りです。

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