Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

20230907

 

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ロシアのウクライナ侵攻が始まる少し前に書いた自伝テキストです。かなり長いので6回に分けて掲載します。

 

美術教師と作家の両道を紡いで-1

堀川紀夫(Horikawa Michio)

 

1 はじめに

私は終戦翌年の1946年2月に新潟県上越市清里区(旧菅原村)に生まれた。そして、戦後日本の発展とシンクロして成長した。現代美術の前衛に魅了されて22歳で美術教師としてスタートすると同時に作家活動を開始した。

公立中学校の美術教師を生業として38年。リタイアして16年目。作家活動は不活発な期間を含めて50年以上継続してきた。なお作家活動に傾注できるようになったのはリタイア以後である。

美術教師としては、最初から教科書題材よりも自主的に開発した題材を重点に据えた。6ケ校を転任し、地域の素材、生徒の興味関心・心情、感性、気付く力、発想力を生かすユニーク題材を開発して実践してきた。後半3分の1の期間は教頭と校長職を務め、その立場から特注備品のデザインなどに美術の力を発揮してきた。

作家活動は時代の変化の渦中で「漂えど沈まず」の歩みを続け、自他共に認める独創性ある作品を数例を残すことができた。作品を評価してくれた美術評論家、キューレターとの出会いにも恵まれて国際展に出品することもできた。

本論はこの両道の足跡を行き来し、時には共振し、時には干渉し合って実践を積み上げてきたその歩みを客観化する試みである。この両道のキーワードを「地元からの発信」と「前衛志向」の2つと後付けている。

 

2 生家の環境と中高生活

父は小学校の教師、母は少ない田畑を営んで生活を支えてくれた。男4人兄弟の末っ子だったのでいつまでも子供扱いされ、主体的な意志をしっかりと持つ態度が形成されるのは遅かった。

生家近くの集落境界に隣の集落と共用の焼き場(火葬場)があった。葬式があると棺を運ぶリヤカーやそりの行列が通り、ワラと薪で遺体が焼かれた。風向きにより死者を焼く独特の匂いがする煙を浴びることもあった。そのような環境から生死が混然であるという無常な死生観を早めに形成したと考えている。

 

中学校の学級担任が美術教師だった。1年の担任は校庭に窯を築いて陶芸を経験させてくれた。窯の中で透き通った炎が揺らめいて美しかった。2、3年の担任は夏休みに同級生をモデルに等身大の塑像を制作し、東京で開催される日展に入選。その姿に感動を覚えた。そんな中で美術作品が選ばれて廊下に掲示されるようになり、好きな教科になっていった。10歳上の長兄が大学で美術を専攻し油彩道具や美術史の本が家にあったことも影響した。筆記テストの成績は最上位グループだったが、音楽と運動能力に乏しく徒競走はいつも最下位だった。

1955年以降日本社会は高度経済成長時代を迎えた。農村には小型の耕運機が登場し、家の井戸には電動ポンプ、地炉やカマドは廃れプロパンガスが主流になっていった。

1957年10月にソビエト連邦世界初の人工衛星であるスプートニク1号を打ち上げた。地元上空を飛行することを新聞で知り、明け方に父親と流星のような軌跡を見た。記憶に残る体験だった。

1959年4月10日の皇太子明仁親王のご婚礼を契機に各家庭にテレビが普及し始めた。

1961年に進学校の高田高校へ入学。入学直後に美術クラブに入った。顧問は村山陽、日展系の具象絵画を追究されていた。クラブで石膏デッサンや風景スケッチ、油彩画、彫塑などに自主的に取り組んだ。

我が家にもテレビが入った1963年11月に初の人工衛星による米国との宇宙中継があった。そこに飛び込んできたニュースはケネディ大統領の暗殺事件で、その不条理に驚愕した。

 

3 東京、長岡、糸魚川での学び

1964年に高校の近くにあった新潟大学教育学部高田分校中学校美術科(西洋画専攻)へ入学。地元で美術教師になり年に数回の展覧会に出品することが夢で、美術作家になるような夢は全く描いてはいなかった。

入学1月後の5月にルーブル美術館からミロのビーナスが来日したのを見に初めて東京へ旅行した。東京へは行きも帰りも夜行列車で片道6時間くらいの長旅だった。会場の西洋美術館へ入館するまで行列が科学博物館を左回りに一周した。その後、近くの東京都美術館毎日新聞社主催の現代日本美術展を見た。オリンピックをテーマにした特別展示があり記憶に残っている。これ以後、年2回以上は東京へ展覧会を見に行くようになった。

大学受験の抑圧から解放され、行動範囲を広げ、ビートルズの髪型を真似て髪を伸ばし、時代の波に乗った気分になっていた。与えられている学習環境を生かした主体的、追究的な学習方法が身に付いておらず、中途半端な学習に終始し、成績は単位認定ギリギリだった。一方で自分の大学を軽んじ、東京などでの見聞で新しい知見が得られると考えていた。

 

この64年、6月に新潟地震があり、7月に父親が急逝。10月に東京オリンピックが開催された。東海道新幹線、代々木第一、第二体育館、首都高速道路の建設などに時代の沸騰、急速な進歩が実感され、カラーテレビや冷蔵庫などが普及していった。

そしてこの年、長岡に私立の「長岡現代美術館」が開館した。当時、日本で現代美術を冠する初の美術館だった。長岡へは電車で1時間程度であり何回も通うことができた。そこでは日本現代美術の先端部、東京の頭越しに欧米の戦後の多様な表現、現代美術作品を見ることができた。中でも、5回開催された長岡現代美術館賞展、ハードエッジとポップアートを紹介する現代アメリカ絵画展(アンディウォーホルの「16のジャッキーの肖像」やローゼンクイストの「成長計画」などが来日)、ムンク木版画展などに大いに魅了された。長岡現代美術館が存在したのは一定の期間となったが、私にとってそこは現代美術のメッカだった。

 

新潟県展は自分の可能性を試す機会だった。65年に現代美術で高名な斉藤義重が審査員で同級生の小栗強司が洋画部門でトップの県展賞をいきなり獲ったことには奮起させられた。

一方、富山県側に位置する糸魚川市の市展は、東京で活躍するトレンディな画家や評論家を審査員として招聘する方式をとっていた。審査は公開制で、出品意欲をそそるものだった。65年8月に初めて公開審査を見た。そこで1年先輩の前山忠が新進美術評論家大岡信の審査で市長賞に決まった。その瞬間、会場から何か自由な世界が動き出したように感じられた。その後の岡田隆彦、画家の前田常作審査員のオープンな審査を間近に見聞し、ヒエラルキーなく自由に活躍できる美術世界に憧れを持つようになった。私の興味関心の対象は明確に現代美術、抽象表現になっていった。

次の66年、私は、岡本太郎が審査員の県展で人間をバッタのように戯画化した作品「悲しき群集」で次席の賞をとることができ、やればできるとの自信を得た。

当時の参考書としてその岡本太郎の著作「今日の芸術」(1955発刊)があった。「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。心地よくあってはならない。」このフレーズを丸呑みして受け止めた。

次に関心をもち想像を巡らしたものは「読売アンデパンダン展(1949〜1963)」のこと。それは既に開催が終了し、出品も見に行くこともできなかった展覧会であった。そこからたくさんの若手スターが育っていた。その若手スターの洗練された作品群を長岡現代美術館で、上京すれば東京画廊や南画廊などで見ることができた。その中の一人篠原有司男が美術手帖で66年2月号から12月号まで自伝の「前衛への道」を連載した。その波乱万丈の物語を読んで「読売アンデパンダン展」やネオ・ダダ(Neo Dadaism Organizersの活動の現場を想像し、作家の生き様を学んだように振り返っている。その他、雑誌「美術ジャーナル」「現代美術」などから東京を中心とする新しい美術の情報を得ていた。

 

4、美術家集団への参加と活動での出会い

前出の前山忠が66年に大志を抱いて東京の貸画廊で個展を開催。そこで新しい美術界の息吹に直接触れ、美術評論家石子順造赤塚行雄らとの人脈を作り、地元に立脚した作家集団の設立へ動き出した。その動きに共感し大学4年の67年10月の「新潟現代美術家集団GUN」結成に参加。作家として前衛的な作品を創作するという初心を描いた。

 

最初の結成展ではポリエステル樹脂で作った有機的なオブジェを出品した。スマートな作品ではなく、表現の大いなる飛躍が求められた。

大学卒業の節目に親からダブルのスーツをオーダーメイドしてもらった。そのスーツが新作のヒントとなった。その洋服屋から縫製で使った型紙でキャンバス地の上着を制作してもらった。私にとって最初の発注作品だった。その発想ルーツはオルデンバークの作品だった。



GUNの展覧会は創設展以降5回開催され、それに伴う4回のハプニングなど全てに参加した。その間に人との出会いがあった。

67年12月の東京のギャラリー新宿で開催されたGUN展で前衛アートに関わりの深いフリーカメラマンの羽永光利の知己を得た。以後上京の折に宿泊させていただくなどで美術界を別の視点から学ぶことができた。

 

前山忠に同行して上京し石子順造のアパートを訪問した際には、静岡の幻触グループの丹羽勝次の箱の荷物を斜投影図的に平面化したトリック表現の「<箱>のメールアート」と高松次郎の「“点”シリーズ」の針金オブジェを見る機会を得た。そして、長野県下諏訪町在住の作家松沢宥の葉書で送るアートなどについて教示を受けた。そこで美術ジャーナル61号を買い求め「作家の記録 虚空間状況探知センター 松沢宥」を読むに至ったが、難解な言語、記号や図式、未知の理論が飛び交う異次元的世界で理解するには程遠かった。  

 

 

 

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webに昨年の大地の芸術祭「山ぞり夏まつり」の一場面が出ていましたので当日を思い出しながら掲載。

 

本日はこれにて。