その1
再掲、「あなたに五円あげます」
2023バージョン
その2
椹木野衣さんよりの質問に答えて。
「あなたに五円玉あげます」は、何故5円玉だったのか?
堀川さんの回答
当時は「五円あげます」ともう一方に名前と住所のスタンプを押していました。なぜ五円玉であったかは、高尚で深い考えではなく、ニルヴァーナというテーマを受け止めるなかばヤケクソで意表をつこうとした発想でした。
自分の経済力で数百人に大手を振って配れる金額であることと。すでにある語呂合わせの「ご縁」の意味を利用しつつで実際に使用可能な貨幣で大した額ではないという意味の重なりなどを考えていたと思います。賽銭としての最低額。神様は一円玉ではご利益なしで五円ならご利益を与えてくれるのではと思います。
会場入り口付近で手渡したのは20名くらいでした。皆さん受け取ってくれましたが「このお金は受け取れないものである」とメモをつけて後日に送り返して来たお方が一人おられました。その他は会場に持ち帰れるように積んでおきました。反応してくれた方で、これを宣伝に利用すれば安く効果的ではないか「いいアィデアと思う」がありました。自分の小学校の頃の経験では五円で栗饅頭が一個買えました、お金の価値が分かるようになった頃の五円は貴重でした。
自分の経済力で数百人に大手を振って配れる金額であることと。すでにある語呂合わせの「ご縁」の意味を利用しつつで実際に使用可能な貨幣で大した額ではないという意味の重なりなどを考えていたと思います。賽銭としての最低額。神様は一円玉ではご利益なしで五円ならご利益を与えてくれるのではと思います。
会場入り口付近で手渡したのは20名くらいでした。皆さん受け取ってくれましたが「このお金は受け取れないものである」とメモをつけて後日に送り返して来たお方が一人おられました。その他は会場に持ち帰れるように積んでおきました。反応してくれた方で、これを宣伝に利用すれば安く効果的ではないか「いいアィデアと思う」がありました。自分の小学校の頃の経験では五円で栗饅頭が一個買えました、お金の価値が分かるようになった頃の五円は貴重でした。
〈石〉作品から生まれて、それを発展させる、〈石〉から出る枝葉となる派生的な作品を目指していた。
オブジェに言葉を書いた荷札をつけるという〈石〉表現の形式と同じ表現の構造を採用した。
椹木さんからの質問を受けてご返信申し上げた内容についてその全てを当時考えていたかは定かに分かりません。
全てが後の知恵になるかと思います。
私の5円作品を含めニルヴァーナ展でどのような作品が出品されレビューされたか改めて検証が必要に思いました。
ちなみに私はニルヴァーナ展に行けば何かが得られると思っていましたが自分の力量のなさで残念ながら何も得られなかったと回顧しています。
主宰の松沢宥を含めきちんとその成果を総括した人はいないと思います。BTのルポはありました。
私にとって松沢宥さんが一番最初に送った〈石〉とニルヴァーナ展での五円玉作品をきちんと保管して来ておられたことに感謝感激しておる次第です。
オブジェに言葉を書いた荷札をつけるという〈石〉表現の形式と同じ表現の構造を採用した。
椹木さんからの質問を受けてご返信申し上げた内容についてその全てを当時考えていたかは定かに分かりません。
全てが後の知恵になるかと思います。
私の5円作品を含めニルヴァーナ展でどのような作品が出品されレビューされたか改めて検証が必要に思いました。
ちなみに私はニルヴァーナ展に行けば何かが得られると思っていましたが自分の力量のなさで残念ながら何も得られなかったと回顧しています。
主宰の松沢宥を含めきちんとその成果を総括した人はいないと思います。BTのルポはありました。
私にとって松沢宥さんが一番最初に送った〈石〉とニルヴァーナ展での五円玉作品をきちんと保管して来ておられたことに感謝感激しておる次第です。
付け足し
ニルヴァーナ展以後、自分の中に展望が開けたわけではない。行動を共にしたMやSにおいてはどうだったのか積極的な動きはなかったように思う。
10月頃?にBTの取材でヨシダヨシエさんが全国縦断の取材に来られた際には頭が空っぽの状態だった。
松沢宥さんから次の企画に誘われるも、入り口が見つからなくなっていた。
松沢宥さんへの関心が表面的で思想的な撤退、逃走、オルタナティブな道の選択への認識がなかった。
その後の新展開は小西反軍闘争のデモに出かけたことである。この行動にはかなりの飛躍があったが体を張ったことで得るものはよかれ悪しかれ次の構築に繋がった。そに後反軍闘争は最高裁で敗れた。そしてあさま山荘事件が起こって左翼幻想から覚めることができた。教員組合から派遣された狭山事件糾弾や沖縄返還闘争関係も含めこの時期の行為、デモに参加、目撃したことは以後の精神形成に大きく影響したと思う。
一つの画期的な作品を生み出すと、その次にそれの自己模倣はできるが、そのレベルあるいはそれ以上の作品を生み出すことは至難の業である。それが前衛の宿命である。
私の場合それが〈石〉作品である。私の唯一の作品である。
さて、次から次へと話題作を発表することができたTさんは新展開に入るための情報収集、データーマイニングをどうされていたのか。今日の視点から60年代後半から70年代直後でのその推移について「何があったのか」知りたいと思う次第である。
1970年で年齢は24歳、田舎育ちでのほほんと育ってきた若者だった。都会的な競争意識、
競争率や健忘術策の中で揉まれたことはなく凡庸だった。
競争率や健忘術策の中で揉まれたことはなく凡庸だった。
教員の仕事が忙しく、以後悩ましい日々が20年以上続くわけである。
その2
妙高市観音平入り口にあったスミレ。
その3
近所の大通りの交差点近くの鉢物名人の玄関にまいねん飾られる鉢の枝垂れです。赤信号で横の位置に停車したので撮影させていただきました。美人を通りすがりに撮影した気分でした。お笑いにしておきます。
今日は長女家族と次女と娘が花見帰省で来ます。天気が良いので孫たちの要望により庭でバーベキューパーティです。
とりあえず。