Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

JS展に関わる質問に答える覚書

堀川様、(前山様) お世話になっております。

 

3月8日に予定されております記者内覧会のために、あらかじめいくつかの質問について英訳を用意しておきたく、以下の通りお送りしております。お答えは長くなくても構いませんので、できれば今週中にご返信いただくことは可能でしょうか?お忙しいところ恐縮ですが、ご協力願えれば幸いです。宜しくお願い申し上げます。

 

  1. 美術の創作に関心を持ったきっかけは?

 

全く文化的刺激のない農村部の中学校で三年間の学級担任二人が美術の先生だった。

A先生が焼き窯を築いて焼き物を、H先生は夏休みに学校で等身大の彫刻を作っていた。そんな姿を見て心を動かされたところがあった。

小学校高学年の頃に10歳年上の兄が美術科教員養成のコースに進学。そのために物心ついた頃自宅に美術書や油彩絵具などがあり関心を持った。

全くの田舎を出る機会がなく、時々見た近くの大工さんの造作作業が一つの見ものだった。

 

運動系は全く不得意だった。体力がなく勉強に持続力がない。その他の教科にあまり感動や面白さを感じなかった。

高校時代は美術クラブで活動した。顧問は村山陽先生で楽しかった。その活動の延長で先輩がたくさんいる近くの新潟大学に入学した。

 

  1. 1960年代の日本の現代美術シーンはどのようでしたか?

 

1964年の東京オリンピックに向けて経済成長しつつ、時代が激しく動いていた。

東海道新幹線、オリンピック諸施設、都市高速道路などの建設。

 

1960年代後半になって、BT、芸術新潮などのアート雑誌で現代美術が盛んに紹介されるようになった。

テクノロジーアート、仕掛けアート、ハプニング、ドクメンタベネチアビエンナーレの動向などが盛んに見られた。

読売アンデパンダンが終わり、各地でのアートフェスティバルが開催され前衛的な作品が伝わってきた。

 

1964年にフランスからミロのビーナスがやってきた。私は、大学一年生。それを見に初めて夜行列車で東京に行った。

1964年に新潟県長岡市長岡現代美術館ができ、そこで世界の現代美術を見ることができた。東京の頭越しに作品が展示され見ることができた。

1964年7月。美術手帳別冊特集号「アンフォルメル以後」

 

年に2〜3回東京に出かけるようになった。(夜行で行って夜行で帰ってくる。)

画廊で盛んに個展が開かれるようになった。上野の美術館、銀座の数軒の画廊を回ると東京のアートの動向を把握することができた。

1966年2月よりネオダダの篠原有司男の「前衛への道」が 一年間BTに連載。

世界の先進的アートと日本とのバトルを示す長岡現代美術館賞展(1964~1968)が話題。その他、シェル美術コンクールなど美術コンクールがアート界の流行、指標となった。

読売アンデパンダン後半で育った比較的年齢の近いスターが多数登場。

毎日新聞主催の現代美術展、国際美術展読売アンデパンダン以降の若手のスターたちが集うようになってモチベーションを高めた。

具体美術協会の活動が紹介されるようになる。

1967年 雑誌 美術ジャーナル61作家の記録「松沢宥」を読む。

1970年の大阪万博に協力的に向かうアーとの動きが顕著。

 

  1. 日本の1960年代文化の何があなたの作品のようなコンセプチュアルな作品を花開かせたのでしょうか?

1946年に生まれたために日本の戦後の経済発展、文化の動向と自分の成長が密接に結びついていた。

ビートルズ自由主義諸国の文化に旋風を起こした。

若者の体制への反抗、自由を希求する世界的な動き。因習からの解放、表現の自由という時代の風潮が自然に体に入ってきた。

1963年に自宅にテレビが入る。上空を飛ぶソ連人工衛星を見る。

テレビ宇宙中継始まる。その最初にケネディ大統領暗殺ニュースが入る。

 

1967年に「新潟現代美術家集団GUN」結成に加わる。前山忠さんがリーダーシップを発揮する。

新素材やテクノロジー・アートを目指したこともあったが模倣を超える抜きん出る発想ができなかった。

発注芸術を試みるが失敗し金欠病になる。

 

メールアートは安価で宣伝的な効率の良いアート形式だと思い取り組み始めた。

色々な表現を試み、1969年7月からのメールアートがヒットした。雑誌や新聞に取り上げられた。

結果としてコンセプチュアルにカテゴライズされるようになったが、自分らしい意味構築のある作品を目指してきた。

 

  1. 当時、日本以外の現代美術シーンをどのように捉えていらっしゃいましたか?

雑誌を通して世界の動向を学んだことになるが、活字を読んでも理解できずに図版で学んだ。そのアートのコンセプトを自分のものに咀嚼することは実力不足で困難だった。

 

美術雑誌で、欧米の新しいアートが次々と紹介された。

1966年に東京国立近代美術館で「現代アメリカ絵画展」を見る。

1967年に長岡現代美術館で「現代アメリカ絵画展(ハードエッジとポップアート)」が開催された。

(ウオーホルの「16のジャッキー」とローゼンクイストの「成長計画」が記憶に残っている。)

1968年 第5回長岡現代美術館賞展で関根伸夫が大賞(以後開催されなくなる)

 

  1. 国外のアーティストと交流を持っていらっしゃいましたか?

全くない。

 

  1. その際、同時期に世界の別の地域で活動していたアーティストと当時のご自身の制作の関係性をどのように捉えていらっしゃいましたか?

 

1962年イブクラインの死去。(芸術新潮世界残酷物語。巡回された紹介映画)

1968年マルセル・デュシャンの死去。雑誌のマルセル・デュシャンの特集があったが理解には遠かった。

1968年末に 瀧口修造訳の「マルセル・デュシャン語録」を無理して購入するも理解はできなかった。

 

石子順造さんから聞いた、静岡を拠点とする幻触グループや長野県の下諏訪町という地方都市を拠点とする松沢宥の存在に共感した。

1969年5月第9回現代美術展で河原温のハガキ作品実物を見る。コンクール部門に「貧しい芸術」や「もの派」的動向が見られた。

 

現場は見ていないが、各地から松沢宥のメッセージ、PLAY、グループ位(穴掘り)などの話題のアート行為が伝わってきた。

1969年8月 松沢宥の青焼きコピー作品を手に入れる。

 

GUNの活動について

  1. 東京といった中心権力からの距離や解離はGUNの作品において主要な動機と言えます。その意識や制作を行っていた風景との関わりについて教えてください。

長岡にできた現代美術館を拠点にアート活動する。東京へ出て行かなくても新潟から発信できる。

 

  1. あなた方のメール・アート・プロジェクトは一般の人々とのつながりを追求するものといえます。郵便はどのようなインスピレーションとなりましたか? 現在のインターネット、スマートフォン、ソーシャルメデイアを考える際、メール・アート・プロジェクトをどのように捉えていらっしゃいます?

 

●伝えたい相手に郵送することで直接伝えることができる。

●郵送で相手の心を動かすとこができれば作品が成立する。

●手から手へ、アナログからアナログへと実感を伴わせて伝えることができる。

●制作費や作品の運搬等に多大な経費がかからない。

 

デジタル世界のSNSアートにも可能性を見出している。

(Webを舞台とするコラージュ、モンタージュアプロプリエーションの可能性など)

 

*1969年7月ののアポロ11号に触発されて閃きがあり「石を送るメールアート」をスタートする。

 

  1. 美術が「毎日における予期しない発見」を作り出すことが今も可能だと思いますか?

 可能と考えている。人生には今、ここしかない。今見える目の前の世界に美を見つけ出すことができなければ他の人を衝き動かすような美は見つからない。

 

遅まきながら2009年からブログを開始ほぼ毎日取り組み、10年目に入っている。その中で自分を鍛え直している。

 

  1. GUNの作品制作について主な政治的動機はありましたか?その場合、政治的考え方は時間を追うごと変化、進化していきましたか?

当時は自国の明治以降の戦争の歴史について浅い認識しかなく、時代の流行のように米国が仕掛けているベトナム戦争反対を叫んでいた。小西反軍裁判には夢があったが、勝利は幻となった。

心情的な「反戦平和」で、左翼的な新聞、左翼政党や新左翼のスローガンを受け売りしていた。

進化したかはわからないが現在に至るまで良い意味で学び続け認識を深めてきている。

 

大航海時代からの世界の歩み。帝国主義植民地主義の歴史の真実について、隠蔽されていることが多い。日本は第二次世界大戦の敗戦とその後の占領統治で自由になった。米国による日本統治は大成功した。その米国追従の基調は現在も脈々と続いている。

歴史、政治、文化について自主的に学び続けて行かなければ分からないことが多い。

 

  1. 「雪の風景を変えるイベンント」など、ランド・アート・プロジェクトを行った他の世界のアーティストたちから直接の影響、関係はあったのでしょうか?

 

1967年芸術新潮11月号特集「現代美術の堕落」 オルデンバーク「静かな市の記念碑」

1967年の12月の東京でのGUN展で行動派の写真家の羽永光利さんと知り合う。以後お世話になる。

1968年 10月 関根伸夫 「位相―大地―」

 

1969年の高松次郎の[石に数字]で河原の石が使われていた。BT6月号で「エアアート」特集。

7月号でアースワーク特集があった。

マイケル・ハイザー、オッペンハイムなど。(Rスミッソンの掲載もあったが画廊内のノンサイト作品)

1969年芸術新潮8月号特集「日本の亜流に支えられた栄光」 

 

ランドアートのコンセプトが与えられ、自分たちの身近にある豊かな自然環境を前向きに使うことができると構想を具体化することができた。

各種の協力、支援のもとに「雪のイメージを変えるイベント」が実現されるに至った。