その1
1988年の昭和の終わりから平成になり。その平成の初日が倉庫美術館の第一回”点”展の初日でレリーフ的な作品を出品しHEISEIとタイトルした次第。以後、HEISEIシリーズ展開。あまり良い評価をうることはできない展開だった。その後大きな空間的作品を作りたいという気持ちがでてきて、自分らしい作品を求め探していた。
角材を4本使うということをシンボリックに考えていた。
1992年の倉庫美術館の第4回”点”展のためのマケットです。
倉庫美術館の展示作品、長いポールは300cm。角材は180cm。
この展覧会の記録冊子に谷新さんのまとめで「類例がある」と書かれてしまった。類例の元について斎藤義重のことを意味しているのかと思ったが、どうせ書くならはっきりと書いてほしかった。○△□という形は人類万民に共通のコスミックな文化である。谷さんが斉藤義重が最後の方でプラトンの多面体シリーズやインスタレーションに展開したことをどう捉えていたかについてどこかに書かれたのではと探しているが見つからない。
私はこのような作品でまだやりたいことがあった。その後も続けて、ある確信を得るところまで歩んだが、レリーフ的な展開で作品の物量が増えて置き場所に困ってしまい、心の踊り場に出て一休みして平面に戻る新展開をすることに。私の中でようやく平面となって今に続いている次第。
その2
この1990年代後半の時期に空や雲に気持ちを惹かれるようになった。当たり前のことに改めて気づいた時期である。これは朝の空。どこで撮ったか記憶にはないが、この空には記憶がある。
その3
1998年の年末に新潟で個展をした折に、念願の坂口安吾碑を訪れた。安吾については少し読んだ程度で、自分の世界に取り込むことができているようには思えない。安吾は松之山に縁があり、その意味でのみ私にとって身近で高名なすごい作家である。