その1
1969.3.21付けの勤務校の生徒会誌に書いたテキストです。まだ23歳になったばかり。教師として一年を終わろうとしていた頃です。この頃、テレビは3局でした。巨人の星の時代です。
その2
1972.1.30 の新潟へ行って帰りの姫川号という越後線を走っていた快速電車より撮影。それをGUNの仲間同士の作品交換に使った次第。当時時々試みていた写真絵葉書シリーズの一環でした。用紙は何というのかは忘れましたが薄い印画紙です。何を見に新潟へ行ったかはよく覚えていません。護国神社の方から出て海を見た記憶はあります。その一年前の新潟・神奈月・ジャズロックフェスティバルの記憶をなぞっていたのかもしれません。
その3
1989.1.8 290x290x15cm 第一回倉庫美術館”点”展
このセッティングは平成時代の幕開けの初日なのでHEISEIと題名をつけ、しばらくの間追求することになる。自分なりの新たな表現を見つけようとしていた。帆布を縫い合わせた特製キャンバスに描いてはクルクルと巻いて作業した。中心に柱を置き、右に合板パネルの絵画を立てかけてレリーフ的に展示。頭はそれほど整理されておらず、あまり意識的なことではなかった無意識から出てきたようだった。自家用車で運べる3mを基準にする大きな作品になった。
この頃に諏訪神社の御柱祭のことを知る。御柱と松沢宥さんとの結びつきについて知るのはもう少ししてからだった。問題は自分の中にどのような柱を立てるかだった。
これから10年間くらい凹凸ある画面で絵の具を使った表現を続けました。1999年の最後の日本海美術展に出品後、地元で高田花ロードが始まるのに伴い自覚的にインスタレーションを試み、続く2000年の大地の芸術祭に機会を与えられるも屋外の場所(室内がない)ということで、自分の中で次なる生みの苦しみを味わうことになります。人真似ではない自分の作品として、平面も立体も自在に行き来する作品世界を生み出すことに苦しみました。いずれにしても2000年の前後数年間はアーティストとして激動の時代でした。
その4 付け足し。
数週間前の李禹煥さんが登場した日曜美術館で雪舟が取り上げられていました。天橋立図の視点を飛行機を飛ばして鳥の目から探ったり、李禹煥の作品もたくさん紹介され、とにかくよくできて楽しめました。
この有名な「慧可断臂図」国宝 1幅 紙本墨画淡彩 室町時代(1496年)199.9×113.6㎝ 齊年寺蔵
この作品で、洞窟の岩の目のような穴を「自然が見ている目である」とのコメントがあった。ダルマの目、慧可の目、岩の目と見てということでこの絵が身近に感じられた次第である。
(この絵については、以前の2002年の没後500年の雪舟の展覧会で中国に同じ構図の原型があることについて展示がありました。)