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美術教師と作家の両道を紡いで-3
堀川紀夫(Horikawa Michio)
11月のアポロ12号の際は採取した12個の石を石屋で二つに切断して一方を送りもう一方を河原に返す試みをした。石の半分はアートになり、半分は河原に残り続けるという物語の生成を意図した。
同月に糸魚川市展の審査で知己を得ている前田常作から紹介状をいただき、稲憲一郎、竹田潔らとの「精神生理学研究所」と名付けられたメール・アートのグループ活動に参加。
決められた日時の行為、無行為の記録を結集して50名ほどの相手に送り届けことで成立する「見えない美術館」の活動だった。
その最初の12月7日付けの作品で、米国のアポロ計画の最高責任者であるニクソン大統領に石を航空便で送付してしまった。前衛的アートのグループ活動として目立つことが肝要と考えて事に及んでしまったわけである。
十日町郵便局でのこの送付手続きの現場を別の仕事で市内に滞在していた羽永光利が撮影。そのことが読売新聞社に伝えられ、取材を受けることに発展した。取材を受ける過程で「石を送る行為」に込めた意味が明らかに引き出され、70年1月8日の特集「第三の若者」での全国記事となった。
この全国記事が出た後にアメリカ大使から一通の手紙をいただいた。そこにはニクソン大統領のメッセージが記されていた。米国の大いなるユーモア、懐の深さを教えられた思いだった。
更に飛躍の時が訪れた。翌2月にGUNグループと前述の羽永光利との協働による信濃川の河原の雪原を舞台にした「雪のイメージを変えるイベント」に参加。羽永光利は四色の顔料の調達に尽力するとともに、そのイベントを写真家の仕事として公式に撮影。撮影者はもう一人磯俊一がいた。
私はこのイベントの際に参加者集団で顔料を振りまいて巨大な抽象画を描いた後、一人でふんどし一丁の姿で赤い顔料を散布するパフォーマンスを付け足しで行い、大いに目立つこととなった。私は、その一時期「石を送るメール・アート」と「雪のイメージを変えるイベント」で前衛アートの先端を走っているように感じていた。
「雪のイメージを変えるイベント」は直後に週刊誌アサヒグラフと月刊美術雑誌「芸術生活」に、また4年後に講談社「Art Now 現代の美術11 行為に賭ける」に取り上げられ全国発信され、GUNグループの最大の成果となった。
70年4月に当時の高度へき地高田市(現上越市)中ノ俣中へ転勤。そこに中原佑介コミッショナーによる「第10回東京ビエンナーレ(人間と物質)」展への招待が届いていた。アポロ13号の月面探査に因むコンセプトで集落に流れる中ノ俣川で石を採取し「石を送るメール・アート」を13個出品。(しかし、アポロ13号は月へ向かう途中で重大な事故を起こし引き返してきた。)
私はいきなり国際的な舞台に立つことになったが正直言って外国の作家で知っていたのはクリストとバリー・フラナガンの2人だけだった。
都美術館前の公園にL字鋼の輪を埋めるためにツルハシを振り上げて汗だくで地面を掘るリチャード・セラ。黒い紙を手で丸めて積み上げるラーナー・ルッテンベック。フラナガンの作品《Casb3 ’67》は67年の第4回長岡現代美術館賞展で見ていた。そのフラナガンの作品は紺厚地の円筒状の袋に砂を詰めたものだったが、スタイルは全く変わって段ボール板を部屋いっぱいに組み立て木毛を乗せた作品だった。展示室の入り口を塞ぐように玉石を積み上げる作業途中のクネリス作品(建物の床が落ちる恐れで実現はしなかった作品)。杉材の丸太を立て上部をノミで角柱に彫る高松次郎。部屋一杯の矩形に黒いウレタンを流す田中信太郎。などの制作現場を目撃した。初めて見る作家たちの先端的で多様、概念的な表現の数々に、自分のアート認識の狭さ、浅学、経験不足を思い知らされ、強烈に記憶に刻まれたアートの現場だった。
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本日9日の撮影です。
本日はこれにて。