Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

谷新さんを悼む

6月2日に谷新さんが亡くなられました。

谷さんが登場した1972年以降の頃、私は右往左往の時期だった。集っていた仲間も冴えた感じではなかったと記憶している。

1980年代に入って、自分の頭で自分ならではのアートを考えることができ、少しものが見えてきた。

そして,Snow Performanceシリーズをものにすることができた。それも5〜6年ほど繰り返していると飽きてしまう。世の中はアートバブルの時代。隣の富山県に新しい美術館ができた。一方。一世を風靡してきた長岡現代美術館は閉館を迎える。

その閉館して貸し会場となった展示スペースを会場に1987年に「新潟現代美術32人展」という展覧会を組織した。続いて新潟に創庫美術館ができる。作家側は新潟現代美術連絡協議会なる組織で「マグニチュード展」を2回開催・参加することになる。

私は1990年の「マグニチュード'90」展の際に、事務局で渉外係のような役割で、当時気鋭な活動をされていた谷さんに連絡をとってカタログにコメント 「いわゆるひとつ」脱却の糸口 を寄せていただいた。

また、長岡に来ていただいて、作品の全体講評をいただいたと記憶している。前山忠さんが大きな鏡を使ったインスタレーションで良い評価のことばをいただいたと記憶している。

 

谷さんは創庫美術館のキューレター的なお仕事をされて何人かの個展を組織され、またグループ”点”展にコメントを寄せておられた。この頃、Snow Performance以後で絵の具を用いた作品を展開していた私はあまり良い作品を作ることができなかった。谷さんからいただいたいくつかの寸評は芳しいものとはならなかった。

そんな経緯を経て、絵の具を用いた作品も少しづつ進化し、日本海美術展で奨励賞を受賞するまでになっていったが、1999年に谷さんから2000年の「見えない境界 変貌するアジアの美術」にSnow Performanceシリーズで招待する連絡をいただいた。びっくりした次第でした。

それからどちらが早かったかは不確かですが、北川フラムさんより2000年の第一回の大地の芸術祭への招待、また富井玲子博士より2001 年のTate ModernでのCentury City展への招待もいただき、3つの国際舞台に3種類の作品で参加する慌ただしい展開となっていきました。

 

谷さんから2000年の「見えない境界 変貌するアジアの美術」のカタログに書いていただいたSnow Performanceについてのコメントは素晴らしいものでした。私の宝物です。

 

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マグニチュード’90で来られた谷さん。

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上は、2000年の「見えない境界 変貌するアジアの美術」オープニングのスナップ。右側は当時の平山知事。

谷さんは宇都宮美術館長をされておられました。その紀要創刊号に <高松次郎の「石と数字」について>を寄せられ直筆の手紙を添えて送っていただいたことは2004年のこと。

その後、谷さんにお会いしたのは松沢宥さんの葬儀、発電所美術館での「河口龍夫展」のオープニング。そして2011年のギャラリー檜での個展に見に来ていただいた時でした。

谷さんの存命中に、冴えた作品を作ってみていただき良い評価の言葉を聞きたかったと思います。本当に残念です。全く言葉は足りませんが、遅まきながら私なりに谷さんを悼む言葉とさせていただきます。谷新さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。