Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

2019年を迎えて-17

21世紀が始まり、人類の幸福の世紀に成るであろうと期待していたが、突然にあの9.11が起こった。以後、急速に世界は悪化していった。米国が世界で好き放題して来た付けのように思えたが、この大事件を理路整然と捉える事は出来なかった。私に出来る事は、その頃に習熟しつつあったPhoto.Shopでの画像加工技術でこの大事件に触発されて作品をつくる事だけだった。

Digital works "E-mail Stamps" Series コメント

1968年の秋に前山忠君に随行して石子順造氏を訪問し、静岡のグループ幻触の方々のメールアートの実物を見ることができ興味を持ちました。そして、1969年7月にアポロ計画に合わせて信濃川の石を拾い、その石を針金で結わえて荷札を付けて郵送するというメールアート作品を考案しました。その作品が評価されて1970年の第10回東京ビエンナーレに招待されたことは大きな成果でした。      
 その石を送るアートもやがて自らの内で新鮮味を失い、形式化し、新展開の活路を自作切手に求めようとしました。1971年の「ことばとイメージ」展(ピナ−ル画廊)に佐藤栄作首相を扱った零円切手を出品しました。赤瀬川源平氏の零円札が一つのヒントでした。
 次は、1972年の美術手帳の紙面開放計画で就任間もない田中角栄首相を取り上げました。その後、1976年に、ロッキード疑獄事件を記念した零円切手や御馬上の聖上陛下の像をシルクスクリーンで拡大復刻プリントしたポスターなどの作品で個展(真木画廊)をしました。
その会期中に、零円切手が1点売れました。買ってくれたのはT氏です。佐藤栄作のものを買ってくれました。1977年には零円切手だけで個展をしました。合計して12種類くらい作りましたが、1982年の石子順造氏の追悼切手を最後にやめてしまいました。
制作をやめたことに関して、いくつか理由がありますが、週間朝日と雑誌太陽に掲載中止されたことが大きく影響しています。
週間朝日の件はゲラ刷りが残っています。この時の原稿料は支払われて受け取りました。この掲載中止の顛末については、針生一郎氏の肝入りで「新日本文学/1977年1月号」に記事にしていただきました。
雑誌「太陽」は1982年頃でした。その時に掲載したいと依頼電話をくれたのは画家のT氏でした。喜んで作品を送ったわけですが、何の説明もなく、すぐに送り返されてきました。全く失礼な話でした。田中角栄首相の顔に「日本列島改悪論者像」とあったのが引っ掛かったわけです。
 その後、月日は流れ、1996年に作家/美術史評家の彦坂尚嘉氏が私を雑誌「アクリラート」の作家インタビューで取り上げ、そこで石のメールアートや零円切手が再評価してくれました。そして、その記事が富井玲子氏の眼に止まり、2001年2月のロンドンテートモダンでの「センチュリーシティ展」に石のメールアートで招待されることになったわけです。
 このような作家としての螺旋状な回帰的展開を経つつ、パソコンで画像活用の技術(Photoshop)に少し習熟した頃にアメリカで911同時多発テロが起こりました。その言い様のない衝撃をどうしても、表現したくなりました。そして、WTCビルに2機目の飛行機が衝突する直前の画像を貼付けて、ほぼ20年ぶりに切手形式の作品を作ってしまったわけです。最初は零円切手をデジタル技術で復刻するような意識が濃厚でした。その過程で電子メール用の切手というコンセプトが生まれ、それをE-mail stampsと名付けました。
 そして、2002年の5〜6月にかけてteoria-kitaibunshiのメーリングリストにE-mail stampsと零円切手で計30点の発表を試みさせていただきました。その双方向のプロセスで彦坂尚嘉氏や富井玲子氏からアドバイス、批評もいただき、今回の作品に結実しています。 
今回の還暦記念の個展です。自分自身の歩みを主テーマにしたE-mail stamps seriesです。一部に関連作品の零円切手や時事を扱った盗用・流用アートの作品もあります。
これらの作品は、最大でA4判です。小さな作品ですが、大きなメッセージを託すことができます。また、大作、大金を使うアート事業の溢れる今日ですが、小さなサイズ、小金でのアートの可能性の追求の一環でもあります。 

2006年2月27日  (2006年のギャラリー檜での個展に寄せて書いたコメント)


今日、このブログを書くに当たって、19年前のネタで改訂版をつくってみました。WTCビルを斜めにレイアウトする事は当時考えられませんでした。