Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

ミニコミ紙COPÉとのこと

この度 (2018.4.6~7)の富井玲子さんの作品調査の際に、1972年にCOPÉというミニコミ紙に書いた文章が出て来ました。堀川のメールアートに対する基本的考えを書いたものです。ここに書かれている考え方は、青春のグラフィティとして記憶の片隅にあっただけのものですが、現在でも踏襲されていると思います。当時の拙い自分の言葉(小生と僕の表記の不統一など)をそのまま受け止め、COPÉの記事をタイプし直してブログに掲載します。


写真絵葉書タイプのメールアート

COPÉ No.8 1972.12.1発行 63pより

小生のメール・アート?をCOPÉ No.8に掲載しようと考えておられる砥の粉と、小生の行為に関心を寄せてもらえたこと、うれしいと思いますが、COPÉというメディアとメールのメディア性の違いが問題と思います。きちんと整理できませんが、以下問題点を述べてみたいと思います。
1、小生の行為は、写真をメールメディアに乗せ発送した時点で終    わってしまっている。伝達されたものが、汚れたり紛失することは、メールメディアの本質と思うこと。
2、小生は伝達しようとする相手との関わりを求めてはいるが、送付したものに付いては、相手の主体性にまかせる。あくまでも自らの内に何かを求めていること。
3、小生、すきな時に写真を撮り、あるいはすきな時に発送している。それだけのこと(写真に限らず、メールメディアを利用する時点では、いつもこう考えてやっています)。
4、以上のようなことから相手に伝達されたものに対し、自分でそれを操作するのは、興味がない、ということ。
5、自分の行為を対象化し、点検総括し直すということは重要だが、(COPÉの編集者の依頼?という関係もあるが)総括の作業は今の時点ではする必要がないと考えている。現在的にはNo.2(COPÉ)掲載の総括の地平をこえていないということ。
上記1〜5の問題、あまり整理されているとは思いませんが、結論としてCOPÉに送られたブツは掲載しようがしまいがCOPÉ主体の操作にまかせる。従って僕自身そのことについては関わらぬというのが妥当と思えます。COPÉが僕の行為についてどう思うかということにおいて、COPÉの掲載物になり得るんじゃないかと思います。
小生の撮影した写真に付いて、もし掲載してもらえるなら、例えばNo.7の佐藤氏の街へ(新宿その3)のような形でなら、写真を適当な大きさに引きのばし、おくっても良いですしコメントも付けられると思うのです。なおNo.2に佐藤栄作の零円切手を掲載してもらいましたが、今回、田中角栄の零円切手普及版を制作しつつあります。できたらそれをCOPÉのメディアに乗せてもらえたらと思っています。
上記雑文で申しわけありませんが、小生の現在の地平を理解していただきたいとおもいます。COPÉの発展を祈っております。僕等のGUNグループも、再成をめざしてやろうとしている最近です。
                   (上越市 堀川紀夫)


付記(2018.4.13)
この号の17pより28pに堀川がCOPÉ編集長の佐藤元洋さんに送った絵葉書タイプのメールアート10点が掲載されました。(実際の紙焼き写真による絵葉書タイプはこの10点目で終了しました。)
本文で売り込んでいるように次号COPÉNo9(1973.3.1)に田中角栄の零円切手が掲載されましたがその後関わりがなくなりました。


佐藤さんと関わることになったのは、1971年3月にピナール画廊で開催された「言葉とイメージ展」に出品した「佐藤栄作の零円切手」に佐藤さんが興味を持って掲載依頼の手紙をいただいた事からです。
また当時ミニコミ誌の活動が活発で、マスコミの注目を集め、佐藤さん等のCOPÉの活動が新聞に紹介されたことがありました。その記事を見た記憶があります。