この作品について先日の1.31のブログに少し書いている。ここで時代背景を少し書いておく。1972年の連合赤軍事件で言いようの無い喪失感を感じ、小西反軍闘争の支援グループ同士の内ゲバ事件に失望。続く1973年はオイルショックで世界が流動化。1774年は大規模校への勤務校異動、自宅からの通勤となり勤務する事で精一杯。ばたばたとする中、1975年1月6日に母親の死去。早めに家を出て独立したいがなかなか実現できないなど。「石を送るメールアート」はアポロ計画の終了に伴い一段落。その後、零円切手をつくり始めたものの単発的で作品が小さかった。美術雑誌や東京方面の動向を傍受しつつ、新潟から何を発信するか迷う日々。何を表現したら良いか前衛アート病で悩む日々。一度国際舞台に立った為に悩みは大きかった。そんな中で衝動的に思い付いて実行したのがこのプリント作品。アクリルのプレートにルーラーでインクの面をつくり、それを顔で拭き取る行為。その拭き取られたインクのネガをポジとして刷り取ったモノプリントである。インクは警察で使っている指紋採取用のインク。身体に安全という事で注文。この行為は、動物も行うマーキングと同じような意味行為だったと考えている。平たく言えばぎりぎりの自己確認の行為、再出発の為の行為だったと思う。自分という存在が身体で納得しないと表現できないタイプであることを自覚。しかし顔や身体に付けたインクを拭き取る事が大変だった。しかも学校の版画プレス機で夕方に一人で行う。この作品を本格的に行ったのは1975年4月20日。この年に、もう一度行ったが日付けの記録無し。
この作品を新潟の倉庫美術館の個展(1991年)で3点出品。また上越市の市展や県展にも出品したが継続的な展開をすることにはしなかった。合わせて15点くらい現存している。
先日、舟見倹二さんに初めて見せた。漂白していた自分の魂を刻印した貴重な表現であると改めて自賛する次第。
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