Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

水と土の芸術祭にて

トークに出席する為に新潟へ行って来ました。会場の旧二葉中には沢山の作品があり、始まる前に見る事が出来ました。日比野克彦さんの朝顔プロジェクトの展示の中に、アクリル管で造った正八面体の管の中に朝顔の種を入れて吊るして展示されているのがありました。そこに私の現在の関心ごとのテンセグリティの構造とジョイントできる構造があり撮影して来ました。

トークには40人近くの出席がありました。1967~1975が新潟現代美術家集団GUNのGUNならではの活動のあった時期でした。私の21歳から29歳までの時期で試行錯誤の連続でした。話せばいくらでも話がありますが、一般化して行くには困難な個人体験ばかりです。いずれにしても4人でのトークの時間が90分は過ぎるのが早かったです。司会の大倉宏さんのリードでざっくばらんな雰囲気が出たことは良かったです。副題の「GUNとは何であったか」の追究ということでは、序論で終わったようです。続編の機会があればと帰り道の運転をしつつ思った次第ですが、自分の中での続編を追究しつつ今を充実させたいと思います。

新潟の未来についての発言を思い出して。
美術とは意味の生成と考えている。作品とは美しい意味である。他の眼ではなく自分の作品を自分で認められるようなレベルの作品を造りたい。最近、ようやく自分を自分で認める事が出来る。自分の庭に、自分が納得する作品を生成させる事を考えている。死ぬまで、現代美術である。まだ可能性があるのではないかと考えている。
ポスト・メディアのこと。
スマートフォンも使ってはいないが、PCなどを使いこなして発信して行く。

さて、本日は、大地の芸術祭の最終日で、一日当番です。観客が何人来られるのか。どんな一日になるのか楽しみです。

本日の新潟日報より。