Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

一年回顧その6

表現に関わるものとして「平和の少女像」などを展示した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展『表現の不自由展・その後』が、開催から3日間で中止に追い込まれた問題は他人事ではありません。が、展示された作品を見ていないので正直どう反応したら良いか今だに自信がありません。

 

再開に反対する河村名古屋市長のパフォーマンス。(テレビ報道を撮影)

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この問題が起きて、いろいろな報道に触れてきて、自分の中のうまく説明できない違和感を感じつつ無為に過ごしてきたようなものです。が、ほんの最近偶然に小林秀雄の角川文庫「常識について」で昭和29年のエッセイの「自由」に出会って目から鱗でした。鱗が落ちたのはリバティーとフリーダムの違いのことです。私のフリーダムから見えた考えが私の考えでそれを整理しなければなりません。

日本には自由という言葉しかありません。何を表現しても自由であり、その反対語として不自由ということになります。作品をどう見ても自由、解釈は自由などというわけですが、その表現の意味構造にどれだけ自由が内包されているか、お互いに適度なスタンスで向き合える批評的地平が構築されているかが問題であると考える次第です。

 

小林秀雄は「自由」で次のように述べています。(全文)

 ハーバート・リードという英国の批評家の本を読んでいたら、自由という言葉について、面白いことを言っていた。英国人は、自由を言うのに、リバティーという言葉とフリーダムという言葉と二つ持っている。正しい語感を持った英国人なら、この二つの言葉の意味合いの、或はニュアンスの相違を、はっきり感得して使い分けていると言うのである。例えばフランスの実存主義者達が、自由について、長たらしい、曖昧な議論をしているのも、フランス人はリベルテという一語しか持っていないところから来ているので、イギリス人の自分には一向面白くもない。「自由自体によってしか制限されない自由」などと苦しい言い廻しをしているが、英国人ならフリーダムと言えば、一と言ですむところだという。人は、リバティーを与えられている。リバティーは市民の権利だ。だが、フリーダムという言葉は、そういう社会的な実際的な自由を指さない。それは、全く個人的な態度を指す。フリーダムとはもともと抽象的な哲学的な語であって、フリーダムが外部から与えられるというようなことはない。与えられたリバティーというものを、いかに努力して生かすかは、各人のフリーダムに属する。自己を実現しようとする人は、必ず義務感と責任感とを伴うフリーダムを経験するであろう。例えば芸術家の、創造のフリーダムとはいうが、創造のリバティーとはいわぬ。リバティーとはフリーダムという価値の基盤に過ぎない、云々。

 リードは、いろいろ説明に苦心しているが、大体そういう意味合いで、この二つの言葉は、英国人に使い分けられているらしい。概念的に説明しにくいということは、言葉が生きて使われている証拠であり、私は英語には不案内であるが、もしそういう次第であれば、英国人の自由に関する常識は、まことにうらやましいことだと思われたのである。

 日本には自由という一語しかないのだが、それで、フランス人のようには、べつだん不便も感じていないようである。自由主義者になるのには、自由という一語しかないほうがよほど便利かもしれない。
 言論の自由を与えよ、というプラカードの下に、いくら沢山な人が行進しようと、自分の苦心創作になる言論をだれも持っていなければ、自由の死骸を求めて、歩いているようなものだろう。
 精神の自由は眼に見えない。黙々として個人のなかで働いているし、またそれは個人にしか働きかけない。精神の自由を集団的に理解する事は出来ない。そういう事実が、実は、文化の塩となっているのであるが、文化問題について大風呂敷を拡げたがる人々には、精神の自由などは空言に聞えるのである。文化論の論題の単位は、日に日に大きなものになってゆく。それにつれて扱われる実相の曖昧さも急速に大きくなってゆく。曖昧さを糊塗する為に、論者は、いよいよ華々しい、もっともらしい言辞を必要としてくるだろう。
 文化論は、学問でもなければ批評でもない、活字のお化けになってゆくであろう。

                         (昭和二十九年一月九日)