Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

「雪のイメージを変えるイベント」補遺

色粉・顔料彫刻についての覚え書き
新潟現代美術家集団GUNの「雪のイメージを変えるイベント」関連記事です。
昨年の9月13日のブログに書いていました。
http://d.hatena.ne.jp/niigata-art226+next-world/searchdiary?word=%2A%5BGUN%5D

1970年2月11日と15日に行われた十日町市信濃川で行われた新潟現代美術家集団GUNの「雪のイメージを変えるイベント」で使用された4色の顔料は大日精化株式会社から提供していただいた。その提供をお願いする仲介役を担っていただいた方は写真家の羽永光利さん。大日精化株式会社の担当者は海上雅臣さん。GUNからは市橋哲夫が一連の手続きに同行されたと聞いている。顔料は市橋さんの友人で十日市の八島勉さんのお宅に届けられた。八島勉さんのお宅で顔料が入った真新しいダンボール箱を見た記憶が鮮明にある。八島さんにはイベントの現場近くの協力者として大きなご尽力をいただいた。
GUNのメンバーは実行部隊ということで、当日集まれる者で行うことになっていた。11日(祝)と15日(日)と2回行うことになったのは撮影者の羽永光利さんと磯俊一さんの取材事情に拠ると聞いている。羽永光利さんはアサヒグラフ、磯俊一さんは芸術生活の取材と聞いている。11日はこの2人で撮影。15日は羽永さんだけが撮影者で海上さんも東京からおいで下さり立ち会われた。結果としては11日は1時間程度の晴天の間にイベントを実行。美しい現場写真が記録された。15日は薄曇り的な天候で少しの青空が見えた程度。重要なことは厳冬のさなかのイベントで晴天に恵まれるかどうかということであり、美しい写真を残すために「ぶっつけ本番のイベント」を2度行うという安全策でもあったわけである。

イベントが終わり顔料が合わせて一抱え残った。その他に簡単に利用できそうにない顔料であり、堀川以外は遠くに住居。顔料の袋は色まみれで汚く、持ち帰るのは無理ということだった。結局、近くに勤務していた私が大きなビニール袋に入れて保管することになった次第。なお、GUNのこの「雪のイメージを変えるイベント」はアサヒグラフ(1970.3.6)と芸術生活4月号の記事となり、全国に発信されて一段落。以後、メンバー個々それぞれの方向を歩み始め集団としての結集力を失って行く。

その後の経過については前出のブログにある程度書いたわけであるが、この度のMisa Shin Gallery個展に四色そのものの「ピグメント彫刻」として出品するに至る迄の経緯についてはその後のこと。
いずれにしても「ピグメント彫刻」生成の出発点は48年前。この間の記憶が錯綜し、前出の記述と重複する部分が出てしまうことをあらかじめ許容とさせていただく。


1970年2月15日。十日町市中条旭町の下宿に運搬。以後3月末迄保管。
1970年3月末。転勤に伴い中頸城郡清里村の実家に宅配し保管。高田市立中ノ俣中へ転勤。

1976年結婚し1980年に自宅を購入。それに伴い、実家に保管してあった学生時代の絵画作品やGUNの顔料を搬出し、以後自宅に保管。

残された顔料を何かに活用出来ないかと思いつつ、徒に月日が流れていく。

1981年雪にBody Printして写真に定着するSnow Performanceを開始。堀川個人としての雪アートが始まる。
1983年 Snow Performanceが毎日現代美術展に入選(受賞)。
1984年自宅の屋根雪にSnow Performanceする際に顔料を使用する。毎日国際美術展に入選。
顔料を使用したのはこの機会だけ。

1980年代半ば。羽永光利さんをそれまでのお礼の意を伝えるために久しぶりに訪問。「雪のイメージを変えるイベント」のカラーポジをいただく。(その後活用しデーター保存後にご子息に返還)

1986年 Snow Performanceで第一回日本海美術展に入選(受賞)
1990年代に入って絵具を使うPaint作品に移行。
1993年 作品集 Snow Performance 発行

1996年1月 NHK総合テレビ「人間マップ・先生は雪のアーティスト」に出演

1997年 アクリラートVol.32 彦坂尚嘉さんによるロングインタビューの記事になる。

2000年の第一回大地の芸術祭でアルフレッド・ジャーの作品に出品する形で「雪のイメージを変えるイベント」の記録作品を大伸ばしする機会を得る。(当該作品を東京都現代美術館に寄贈)

同年のアジア現代美術展にSnow Performanceで招待。谷新さんデレクター。

2001年 UK.Tate Modern でのCentury City 展に「石を送るメールアート」で招待。富井玲子さんキューレター。

2008年1月 「新潟現代美術家集団GUNの軌跡」展を企画実施。長岡市ギャラリーmu-an
2008年2月 雪アートプロジェクト始まる。 十日町市中里(08〜10)ー松代(11〜17)ー奴奈川(18)

2008~09 「雪のイメージを変えるイベント」のポートフォリオ作品集を制作。(市橋哲夫、堀川紀夫、前山忠が出資)データー制作は堀川紀夫が担当。

2009年4月 「新潟現代美術家集団GUNの軌跡」展 アートスペース・トキ

2012年 第5回大地の芸術祭 雪アートの軌跡展 (ギャラリー湯山)でGUNの「雪のイメージを変えるイベント」を雪アートの先駆例として展示。
その際に保管していた4色の顔料を1000cc のビンに入れて標本的に展示。(紙袋に入っていた顔料を同じ大きさのビンに入れ替えて保管。紙袋と汚れたビニール袋を処分)

2012〜13年 GUN-新潟に前衛があった頃-展にも同標本を展示。(富井玲子さん来場)

顔料をGUNの「雪のイメージを変えるイベント」の付属物として活用するのではなく「色を持つ顔料そのもの」としての存在感を際出させる方向を考えるようになる。

2013年の十日町市松之山のギャラリー湯山個展で緑の顔料を同古民家のいろりに残されていた灰を掻く道具(十能)の銅の緑青と関連づける作品を発表。
2014年5月の上越市大島画廊での個展でタイトルを特定しないで青色考とも言うべき作品を設置。瓶に入った青の顔料2本を展示。

2014年6月の柏崎市游文舎での個展で自分のコンセプトのBlue Sky project に関連させて青の顔料2kg程度を直方体の特注のアクリルケースに入れて「青粉彫刻」として出品。

4色の顔料は「雪のイメージを変えるイベント」より出て、既に自立していると考えるようになる。

2014年?月 JSの企画展関連で富井玲子さんが来られて、「青粉彫刻」と「コウイカの骨」のオブジェなども見ていかれる。

2016年6月 富井玲子さん著作発刊。来日の折りに同行してMisa Shin Galleryを訪問。辛美沙さんとお会いする。

2017年 Misa Shin Gallery 辛美沙さん来訪。個展を開催する方向で話が進む。60年代~70年代の作品を見ていただく。70年に出自がある最近の作品の「青粉彫刻」に興味を示す。

2017年9月 Misa Shin Gallery 嘉悦 貴之さん自家用車で来られ「青粉彫刻」も預かって行く。

2018年8月6日 辛美沙さん再来訪され、9月の画廊移転最初の個展の話が決まる。その際に4色の「顔料彫刻」を「雪のイメージを変えるイベント」を歴史化する物証として展示することの話がほぼ決まる。堀川が48年間保管し熟成させてきた顔料がMisa Shin Galleryの個展の機会に作品(物証)として日の目を見ることとなった。


この構想での一番の問題は顔料を収めるネジで止める蓋のあるアクリルケースの実現性。
幸いに上越市のSE工業で希望に叶う製品が作れることで作品実現へと話が進む。

SE工業に一辺が25cmのアクリル直方体を発注。

4色の顔料各2kg前後をビニール袋に丁重に詰めてMisa Shin Galleryへ送る。

9月27日個展会場に出向いて、アクリルケースに4色の顔料を収めて蓋をネジ止めして作品完成。
 
1970年2月の「雪のイメージを変えるイベント」と関連し自立する「ピグメント彫刻」の生成となる。

GUNは現在形では存在していない。この4点の「ピグメント彫刻」は48年前のGUNの「雪のイメージを変えるイベント」で使用された顔料の残りをそのまま4色セットとして作品化したものである。
この作品素材の4色の顔料をGUN の一員であった堀川が48年間保管を続けてきた経緯をふまえ作者名をGUN:Horikawa Michioとしたいと考えている。
(10月29、30日に加筆・訂正)

Wikipediaより
コロン:の説明・言い換え。「X: Y」は、「X、つまりY」「X、言い換えるとY」、あるいは文中でなく単独で使われた場合は「XはYである」と意訳できる。