Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

Horikawa Works-3

堀川紀夫のアート日記に記載した記事を再掲し,補充します。
1974年4月に小規模から大規模校へ転勤。実家に居候し、勤め先では仕事をこなす事で精一杯の生活となった。教員としては当たり前の事をこなして行かなければならない。アートに力を注ぐ余裕等なくなった。しかし、アートを諦めるわけにはいかない。孤立無援の地方から全国発信を目指す気持ちには変わりはない。グループでの可能性を求めてGUN展を開催する事に。また名古屋の水上旬さんからからグループ展の誘いが来る。京都でのシグニファイニング展である。この頃、アートに正対したり順応するように考える事は出来なかった。浅間山荘事件、小西反軍闘争での内ゲバ新左翼への絶望。殺戮の続くベトナムなどの世界情勢。オイルショックなど。心は安定を求めつつ荒れていた。アートにアートとは違う角度で入る、話題性を求めて過激な入口を探す日々。
そんな中、実家の押し入れの引き出しから発見した昭和3年の刻印のある「御馬上の聖上陛下」の帝国主義の時代の昭和天皇図像に大きな関心が向いて行った。そのチラシの実物は1972年の個展で戦時中の新聞と一緒に展示していた。自分の立脚点を探ろうとする行為の一環だった。
その天皇の画像を、いまなお私たちのアイディンティティを制御するイメージ・シンボルと捉え直し、それを拡大リプリントして展示してみることを決意。制作に5万円かかったことを記憶している。

GUN「発癌性イベント」展での全紙ポスター展示とPerformance 1974.9

このパフォーマンスの意味について「新潟現代美術家集団GUNと私(現代美術自分史)2008.4」より。
「この時、私の作品は生家で見つけた戦時中の和田英作画伯作の「御馬上の聖上陛下」の図版を全紙大に拡大リプリントした全紙ポスター十四枚を連続して貼ったもの。そして、その前で布団に寝て起きてからリンゴを食べるという30分ほどのパフォーマンスを行った。
今の時点でそのことの意味を検証してみて、69年のジョンレノンとヨーコのベッド•インと同じ要素を持った一人芝居だったと気付いた。つまり、天皇や国家のことを考えるより個人それぞれの生活のことが大事、という時代の雰囲気と自分自身の生活の安定、結婚願望等が投影された意味行為であったと納得している。」

京都へは同じ枚数のポスターを送っただけで見に行く事は出来なかった。展示の写真も残っていない。提出したコメントはある。1974.11


これは1976年の真木画廊個展での展示例。1976.5 MAKI Gallery

2008年の長岡ギャラリーmu-anでの回顧展での展示とリンゴをかじるパフォーマンス。