Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

 葉月-0831

その1

8月も最終日です。

本日のCG・automatismです。背景で自分としては初めてのツールを使っています。完成までは一回勝負の決断を重ねていきます。

 

その2

1993年に拙作のSnow Performanceについて書いていただいたコメントです。

中原佑介

 現代美術の一要素として雪原がとりあげられたのは60年代のランド・アートに始まるが、堀川紀夫のSNOW‐PERFORMANCEも雪原が基本的な要索となっている。堀川はその雪原とパフォーマンスを組み合わせたのである。

 堀川はSNOW‐PERFORMANCEの着想についてこう述べている。60年代末、郵送による作品・メール・アートを実行していたこの美術家は、その後『零円切手シリーズ』の制作に移ったが、「そのうちに切手のみが一人歩きし、自分の表現は自分の身体の形によってしか成り立たないと考えるようになり、手始めに顔と髪を筆にモノプリントした。続いては、イヴ・クラインをもじってあぶり出しのボデーアートをやってみた。そうしたら、子供の頃によく遊んだ『雪に身を投げ出す』行為が改めて想起された。新雪に身体(五体)を投げ出し、その跡を写真におさめてみた。」メール・アートも切手シリーズも概念芸術の文脈に位置づけられる。それが一転して身体による表現、SNOW‐PERFORMANCEに移ったということである。その際、彼はイヴ・クラインの『人体測量』、いわゆる人体のプリントが大きく作用したと述べているが、実際、それはイヴ・クラインの仕事を想起させる。ライフサイズの人体を直接プリントするというイヴ・クラインの作品は、それほど意表をつくものだったからである。

 しかし、後者が人体プリントに際していわば演出家的であったのに対し、堀川は自作自演である。自らのからだを雪面に投げ出してその形態を刻印し、それを自分で写真に撮っている。この自分自身のからだを投げ出すというのが、雪面でのパフォーマンスと名付けられている所以である。

 雪面に残された人体の刻印は、その深さという点ではプリントでなく促成のレリーフといったほうがふさわしい。その白だけによる形態は光の陰影によって際立つ。今これを白い雪面に配された白い形態として見れば、ここにはマーレヴィッチの『白い上の白』の遠いこだまがあるといえなくもない。あるいは、アクロミズム(非色主義)を主張し、白い布や綿を取り上げたピエロ・マンゾー二とどこかつながるものがある。

 今もいったように写真に残されているのは雪面のレリーフである。しかし、このレリーフそのものは一時的なものであって、それは雪の溶解とともに姿を消す。身を投げ出す行為があり、非永統的な形態がうまれ、写真を撮るという行為があり、写真が残る。堀川の行ったのはそういうことだが、パフオーマンス、その結果として視覚的な形態を残すという過程そのものは、芸術表現のオーソドックスともいえるものであって、特別なことではない。独特なのは、堀川紀夫のそれが雪面で行われたという点である。

 

 

 

 

このコメントを今編集をしている石を送るメール・アートの本の活動覚書の資料に掲載させていただくことになりそうです。中原さんにこのコメントを書いていただいたことは大きな自信と財産となっています。

 

本日はこれにて。