その1
蕾の状態の卯の花、赤の色が咲いた状態より濃いので改めて撮影しました。大厳寺キャンプ場にて。
その2
十日町本町のアーケードに造形物を設置している人がいました。電飾がついているので夜型の作品のようでした。
その3
高松次郎さんの影響について記憶を辿っています。
大学に入ってタガが外れたようでしたが一年の時は皆と一緒に授業を受けていました。2年になっていきなり抽象的な表現に取り組み始めましたが、同学年の小栗強司君がいきなり県展で受賞して奮起させられた次第。
美術手帳を買うようになったのも大学2年になってからです。
シェル美術賞の話題があり。BT10月号に高松さんが受賞された記事がありました。隣のページは「岐阜・アンデパンダン・アート・フェスティバル」の記事でグループ<位>の「穴」の話があり、高松の影と一緒に頭に入っていた。作品も現場も見ていない田舎学生がそれなりに受け止めた衝撃だったと記憶を辿っている。
高松さんの作品写真は作品の写真としては小さくクリアでなく、細部がどうなっているかよくわからなかった。この絵の新しさのことなど見方もわからなかった。表面的にしか見れなかった。
今Webで見つけた作品画像
1965 BT 10月号 80p
美術出版社より出た「アンフォルメル以後」(1964、7発行)で高松さんらハイレッドセンターの不在の部屋展のこと「紐の作品」ことを知ったのもこの頃だった。「点」はかなり過ぎてからだった。
この次に「紐の弛み」「布の弛み」「遠近法シリーズ」
そして、画廊内には石が外に置かれているという案に掲示のほか何もなく、外の街路樹の根元に数字の書かれた石。「石と数字」
BT 1969.4 12p 「今月の焦点」石子順造 図版
この後、東京へ出て現代美術展で大きな「布の弛み」作品の実物を見る。
この次に
BT7月号の アースワーク特集で多摩川で石に数字を書いている高松さんの写真が出て、近くの信濃川を強く意識するようになっていったというわけである。