1964年、私は大学に入ったばかりの18歳でした。その年新潟国体が5月に開催され、6月に新潟地震がありました。5月の連休にミロのビーナスを見に初めて東京に行ったこと。その7月20日に父親が亡くなりました。前日の夜9時頃に喘息の発作が起き、3時間ほど苦しんでお医者さんが来られて間も無く脳出血を発症し昏睡状態になって見ている前で死んでいきました。享年59歳でした。あれから56年経過しています。
その日、地元の学習社の模擬テストがあり、そのアルバイトで汽車に乗って妙高高原中でテスト監督をして帰宅したことを記憶している。
その年は今年のように7月に入って雨続きで、うっとおしい天気が続き、父親の葬儀の日から晴れたのが不思議でした。父親は家から直線距離で50mくらいにあった集落の焼き場で火葬されました。
父親のことをこのブログで書いたのは初めて。ほとんど毎日、父親のこと、そして母親のことをなんとなく思い出してしまう。親孝行みたいなことができなかったことが負い目になっているのかもしれない。
この年は東京オリンピックが開催された年。カラーテレビが普及し出した年でした。
この詩は新潟大学高田分校 八志保 ’64中教会No6に掲載されたもの。1965.2.10発行より。秋くらいに原稿を頼まれ一気に書いたようにうろ覚えている。
この時期に書いたもので唯一残っている書物です。本邦初公開です。父親の冥福は残された子供の幸せと考え、掲載しました。
この詩から思い出すものも多いです。
電報うちに高田の郵便局まで行きました。そこにもう一人電報を打つ人がいて、子供の誕生を知らせるものでした。記憶に残っています。
本日のTensegrityの展開。
螺旋型で組み立て方を工夫しています。Barの節点に穴を開け、そこに紐を通して、引っ張る形です。ビニール紐、ヒートン、ワーヤーを使っています。組み立てのプロセスの説明は難しいです。
写真にある太めの線は紐。斜めの細い線はワーヤーです。ワイヤーを引っ張ることでBarが立ち上がり、全体が立ち上がってきます。