Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

創作の原風景

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大分市美術館の「磯崎新の謎」展が終了して一月後に朝日新聞に掲載の記事が出ました。磯崎新の謎を解く鍵の一つとして受け止めて切り抜いていました。磯崎さんの原風景は空襲を受けた故郷大分市の「瓦礫ばかり焼け野原」つまりは「建築の不在」だったという。

この朝日の記事を援用して、おこがましくも自分の出発点を思い起こしてみると、世界は生家の建物空間と30mスクエアくらいの周りの田畑と小川、竹林に雑木林しかない。

小川は幅1m少しくらい。そこに鮒、タナゴ、鯉、ドジョウ、ナマズなどが生息していた。釣れるのは鮒が一番で、タナゴ、鯉などが時々。帰宅してから屋敷の堆肥場を掘ってミミズを捕まえて、竹の棒の釣竿で時々釣っていた。たまには500mくらい離れたバス道路の橋の下の池に遠征した。釣れるサイズは最大10cmくらいだった。それらを食べた記憶はあまりないが二つ上の兄が手づかみの名人で少し離れたガンペイ川でナマズを何度か獲ってきて照り焼きなどにして食してとても美味だった。動物性のタンパクの少ない野菜ばかりだった食卓が貴重なナマズで時々賑わいを見せた。これらの原体験が今の釣り趣味につながっているのは間違い無いこと。

その他、ネズミいらずを食べて死んだネズミを食べて死んだ家猫。屋敷のいた蛇を追いかけて棒で叩いて殺した記憶。近くの道路に落ちていた硬い梨の実を拾って食べて父親に叩かれて泣いた記憶。切り出しナイフを持って走って転んで手をかなり切った。この転んだ場所は覚えている。これは5歳くらいだったか。

一番恐ろしかったのは小学生の低学年の頃、裸足で駆け巡っいたその足指の傷から雑菌が入って大腿の付け根のリンパ腺が化膿して麻酔なしの手術をさせられたこと。兄弟と近所の年上の子供数人に身体全体を抑えられてメスで患部を切られその痛さで近所に聞こえるくらいの大声で泣いたことがあるが、その手術が終わった後は不思議と痛みがなくなっていた。

思い出を辿っていっても楽しい思い出は少ない。貧しかった、何もなかった。本は読まなかった。本もはかった。読むという持続力もなかった。何をしていたか分からないのだけれど勉強せずに適当に遊んでいた。努力せずサボっていた。

字が下手で文章を書くのが苦手だった。中学生の頃や高校時代に書いた原稿など残っているものがあるが、びっくりするくらい稚拙で恥ずかしい。

そんなある日、小学生の高学年か中学の一年の頃の冬。近くで雪投げで互いを狙って当てっこをしていた時、2歳年下に悪口を言われた。その言葉を今でも覚えているがここには書かない。

はっきりしているのはその夜に夢を見たこと。その夢の記憶が今の自分を導いているように思っいている。その夢の意味は最近になって「夢の本」(夢分析のマニュアル)でほぼ解読できているが言葉にすることはしない。ただ、自分を支え導いてくれる何かの力が働いてくれているように思っている。私は運のいい存在であることは間違いない。

とりあえず。