Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

寺山修司のこと

3月8日のNHKBSのプレミアムカフェという番組再放送「名作をポケットに」で寺山修司(田園に死す)、続いて石川啄木(一握の砂)、高村光太郎智恵子抄)があった。後者二人に付いては幾つかの代表的作品がすぐに思い浮かび、知識に刻まれている。一方寺山修司については「アングラ、天井桟敷、(書を捨てよ、町へ出よう)」というキーワードと青白いイメージの顔写真で記憶されているだけで実質的な知的内容は何も無かったことに気付いた。番組は30分くらいのもので、最初から画面に短歌と詩がナレーションとともに流れ、その言葉の組合わせが意表的で琴線にふれるようで真剣な思いで視聴した。寺山の「書を捨てよ、町へ出よう」は持っていた。S43年の教員になったその年(1968年/堀川22歳)に出版され買っていた。当時すでに大スターだった横尾忠則のブックデザイン・イラストに惹かれて買ったのか、しかしその中身を読んで何か記憶に残っていたものは無い。本を見ていただけで読んではいなかったのだろう。そんな成り行きで今回「書を捨てよ、町へ出よう」を読もうとして初めて読んだ次第。
この本のページの中央部分に特別なスクエアな紙に青いインクで印刷された「私自身の詩的自叙伝」があり、そこを読むとテレビで語られた寺山ストーリーに直結していた。その後、何回かWeb検索し、少し寺山に関して理解できたように思っている。

番組で紹介された詩「悲しき自伝」に「胃の底にある穴」の主題があった。

寺山修司 「新・餓鬼草紙」より

悲しき自伝

裏町にひとりの餓鬼あり、
飢ゑ渇くことかぎり
なければ、
パンのみにては
充たされがたし。

胃の底にマンホールの
ごとき異形の穴ありて、
ひたすら飢ゑくるしむ。
こころみに、綿、砂など
もて底ふたがむとせしが、
穴あくまでひろし。

おに、穴充たさむため
百冊の詩書、工学事典、
その他ありとあらゆる
書物をくらひ、家具または
「家」をのみこむも
穴ますます深し。

おに、電線をくらひ、土地を
くらひ、街をくらひて
影のごとく立ちあがるも
空腹感、ますます
限りなし。

おに、みづからの胃の穴に
首さしいれて深さはからむ
とすれば、はるか天に銀河
見え、ただ縹渺とさびしき
風吹けるばかり。

もはや、
くらふべきものなきほど、
はてしなき穴なり。

寺山の穴の問題を論じる力はありませんが連想的につなげて、ここで語られているのは寺山自身そのものに備わっていてそこからは脱出不可能なブラックホールと捉えたいと考えます。このブラッホールから寺山宇宙の言葉が紡がれ放出されて来たわけです。図式的ですが放出と言う事はブラックがホワイトになったという事です。穴を意識すればその穴をどう考えるか、そのままにしておくか、埋めるかあるいは何を取り出すかという事になって行きます。それにしても寺山の穴は短い時間におびただしい言葉を放出してくれました。今回それなりに寺山について調べてみて、例えば母親を死んだものとし、また実在しなかった姉や弟が存在するような語りがあり、虚構を駆使していることがよく理解できたと思っています。孤独や心の傷が深すぎて虚構を使わなければ言葉が詰まって出てこなかったのでしょう。

「穴」というキーワードをアートの同時代に引き寄せて考えてみる。
岐阜長良川の河原でのグループ位の穴掘り作品。1965年
オルデンバークの「静かな市の記念碑」1967年
続いて1968年に関根伸夫の地面に穴を掘った「位相ー大地ー」がある。これは神戸の公園に5〜6人で頑張って円筒形の穴を掘って(凹型)とし、掘り出した土を円筒形に積み(凸型)凹凸を対照的に一定期間実在させたもの。
また、先日ギャラリー23℃で見た藤井博の個展が「わたしの穴、21世紀の瘡蓋」とあった。藤井の穴は実際に掘って出来た穴ではない。心の中の穴から「肉を地面や街頭に直線状に並べる」作品=行為(1970年)が出て来たと考えられる。
それらがアートの世界における時代の裂傷ととらえて藤井展の企画者のテキストが構築されていたと思われる。そして今、瘡蓋が出来て癒えているのかなど。

飛躍しますが、あの時期の私は「現代アートという穴」に落ちてもがいていました。あるいは穴に落ちていた事すら分からなく右往左往していたようにも思われます。

穴の話は続きます。どの穴も広大極まりなしです。穴は時代を超えるキーワードです。穴の問題は宇宙生成のブラックホールの問題です。
とりあえず。