Art Site Horikawa-II

徒然なる思いも含め書く事を積み上げ、アートの発想、構想力を鍛える。

美術という幻想の終焉展シンポジウム関係

明日、長野の信濃美術館で開かれる「美術という幻想の終焉・ひらかれている」展オーラルヒストリー聞き取りに招かれて出席することになりました。
私が関係しているのは1969年8月に開催された「美術という幻想の終焉」展のシンポジウムです。観客として参加しただけなのですが、その際のメモを2009年に堀川紀夫のアート日記という個人ブログに載せました。この事が今回の聞き取りに招かれることにつながっていると思います。当時の現代美術の動向の上で意味があると考えるから聞き取りをされるわけですが、48年前の出来事について、詳しく覚えている関係者がおられるでしょうか。どのような話が出てくるのでしょうか、期待半分としておくことにします。


いただいた明日の進行表です。


1. 開催会場   長野県信濃美術館 第2展示室、3F講堂

2. 開催予定日時  2017年 6月23日(金) 午前11時〜午後4時30分 

3. 出席者(予定・敬称略)
峯村敏明、杉村俊明、春原敏之、前山忠、堀川紀夫
  
調査者 嶋田美子、長沼宏昌、細谷修平、瀬尾典昭、木内真由美


 以下が私のメモです。ブログに掲載するのは「堀川紀夫のアート日記2009.04.19」とこのブログ2016.07.11に続いて3度目です。

「美術という幻想の終焉」展 シンポジウム(堀川メモ)


1969年8月10日(於・長野市名店デパート2階大ホール)



春原 
経過報告
既成の枠を超えて、創造することを創造する。
1日に中原佑介氏に協力依頼。
6日、松沢氏の個展の際にミーテイング。
次回よりアンデパンダン形式に。
芸術の枠を超えた大きな場を創り出す。

松沢 
比丘尼の教え   
感覚→認識→解脱→涅槃 これは美術の道程である。
地・水・火・風・空への着目がアースワークである。
識(色?)の無限もなく。無想の否定もなく
この世もなく→拠り所なく、信仰なく、大局(対極?)ない時
涅槃は絶対 それを超越しようと望む 芸術も超越しようと望む
物質的世界の消滅

山崎 
時と時間の間にあるものを問題にしている

嶺村 
芸術の消滅に興味ある
松沢氏はニルヴァーナアートである。
今年、芸術に不信の眼、あるいは無化を叫ぶ
芸術とは何かは→中原氏が
芸術としての社会的側面の問題からのアプローチ
*経済的側面 画廊制度=輸入された制度
フランスでは ものとしての作品を→買う、売れる
アラン・ジュフロワは作品の流通制度に反発し、本来の純粋な精神活動を取り戻そう
既成の文化そのものへの疑問 
枠を廃棄
芸術は幻想なのか?シンポジウムで討論を

中原 
美術は消滅しなければならないとは思わない
つくることの廃棄→つくることに価値はあるのか
つくることに大きな価値を与えようとするのを止めようということ
観念としての芸術→アースワーク、エアーアート→コンセプチャルアートというのが日本で流行っている

アースワーク、エアーアートは物質には違いない
レッテルを貼ってコンセプチャルアートを叩こう
芸術はものでしかないという見方もある
現実離れも思考の一種である
ムードとして芸術の廃棄が漂っている
予感としては不毛の結果
つくることは廃棄していない→根本的に廃棄になっていることはあり得る。楽観的である。        
松沢氏のこと
→時間空間を超越→絶対的信念である
幻想に対する幻滅はある
もはや美術は信ずるに足らない。今は悪い状態。また良くなる。
ジュフロワについて→絶望でなく、社会体制が悪い。

引き出しにしまっておいて→紙切れのようなものでも→価値がある。
・ つくらないことでも、ある種の説得があれば、つくる以上に力をもつ
・ メタ・アート
・ 芸術の廃棄はおそろしいことであり、それなりの意味がある。
・ ある日突然、芸術を止めてしまえばよい。→でもできない。
・ 美術という幻想の終焉はラディカルな問いであることは間違いない。
・ 美術は幻想なのか?

山崎 
今まであった美術 非時間性 無時間性の概念である
時間の中に求める。非時間性の空間ではなく、非空間性としての時間でアプローチ
関根→現象学的に批評されている
(自己存在の疑問)→(観念の抽象化)→現象学的世界に疑問がある
時間の中の人間 その中の思考
近代以前にある時間の概念 物質的時間と絶対的時間
ものが持っている全体を離れた時間
対象化される美ではなく、自己の中にある美
観念の抽象化 瞬間、瞬間を個々に時として提出

成田 
美術が幻想である。これも幻想で→美術は体制の中での幻想である。

臼田

山崎 
場→観念としての場 実体としての場←→観念としての場 を区別
相対的な時間 
つくれない
   
どのように我々自身があるのか
池田龍男→何月何日のオリオン座  指定は一回だけで終わり
時間の中では一回限り 時間に対しての境界 その時その時に還元される。
   
芸術も美術も一つのプロセスでしかない。
美術が幻想として存在し得た場合
ニルヴァーナ→過程で解き放つことを拒否
西洋→過程としてとらえる

中原 
議論は終焉に縛られていて、ナンセンスをクローズアップした。
ボイス→アンチイルージョン

フロアからの発言。

女性の発言(付け足し) 

生きていること自体が表現であると考えている。表現を否定するような考えは理解できない。(このような趣旨の発言があった。この発言だけが記憶に残っている。)

 私は、終わり頃にフロアから「アートは、もう少し相手に衝撃的に訴えることが重要」というような趣旨の発言をした。すると、松澤さんが「ならば、どのような表現があるのか」と問い返してこられた。そこで私は、「石を送ることをしている」と応え、自分をアピールした。
(註、中原さん、松澤さんに石を送ったのは7月21日の事)