新潟現代美術家集団GUN に参加した1967年秋に。美術ジャーナル61を買い、作家の記録松沢宥を読んではいました。見ていましたというべきか、理解はできなかった事だけは確かでした。長文でした。今でも理解をしているとは言えません。
1969年8月10日 長野市の信濃美術館「美術という幻想の終焉」展に十日町から飯山線に乗って行きました。美術館の大きな会場にB5サイズの青焼きのコピーが貼ってありました。その作品を今も持っています。持ち帰り分が置いてありそれをいただいて来たと思います。松沢さん以外の作品は前山忠さんのハガキに印刷された作品(本人からいただいたものがある)しか記憶にありません。
これが「美術という幻想の終焉」を示す作品か?と思いましたが、私の理解力をはるかに超えていました。
この時のシンポジウムのメモです。メモを整理したのが30年後くらいだったので記憶を思い起こす力も消えており、記録と呼べるものではありません。その場の雰囲気は味わえると思います。
「美術という幻想の終焉」展 シンポジウム(メモ)
春原 経過報告
既成の枠を超えて、創造することを創造する。
1日に中原佑介氏に協力依頼。
6日、松沢氏の個展の祭にミーテイング。
次回よりアンデパンダン形式に。
芸術の枠を超えた大きな場を創り出す。
松沢 比丘尼の教え
感覚→認識→解脱→涅槃 これは美術の道程である。
地・水・火・風・空への着目アースワークである。
認の無限もなく。無想の否定もなく
この世もなく→拠り所なく、信仰なく、大局ない時
涅槃は絶対 それを超越しようと望む 芸術も超越しようと望む
物質的世界の消滅
山崎 時と時間の間にあるものを問題にしている
嶺村 芸術の消滅に興味ある
松沢氏はニルバーナアートである。
今年、芸術に不信の眼、あるいは無化を叫ぶ
芸術とは何かは→中原氏が
芸術としての社会的側面の問題からのアプローチ
◎経済的側面 画廊制度=輸入された制度
フランスでは ものとしての作品を→買う、売れる
アランジャフロウは作品の流通制度に反発し、本来の純粋な精神活動を取り戻そう
既成の文化そのものへの疑問 枠を廃棄
芸術は幻想なのか? シンポジウムで討論を
中原 美術は消滅しなければならないとは思わない
つくることの廃棄→つくることに価値はあるのか
つくることに大きな価値を与えようとするのを止めようということ
観念としての芸術→アースワーク、エアーアート→コンセプチャルアートというのが日本で 流行っている
アースワーク、エアーアートは物質には違いない
レッテルを貼ってコンセプチャルアートを叩こう
芸術はものでしかないという見方もある
現実離れも思考の一種である
ムードとして芸術の廃棄が漂っている
予感としては不毛の結果となる
つくることは廃棄していない→根本的に廃棄になっていることはあり得 る。楽観的である。
松沢氏のこと→時間空間を超越→絶対的信念である
幻想に対する幻滅はある
もはや美術は信ずるに足らない。今は悪い状態。また良くなる。
ジャフロウについて→絶望でなく、社会体制が悪い。
引き出しにしまっておいて→紙切れのようなものでも→価値がある。
・ つくらないことでも、ある種の説得があれば、つくる以上に力をもつ
・ メタ・アート
・ 芸術の廃棄はおそろしいことであり、それなりの意味がある。
・ ある日突然、芸術を止めてしまえばよい。→でもできない。
・ 美術という幻想の終焉はラディカルな問いであることは間違いない。
・ 美術は幻想なのか?
山崎 今まであった美術 非時間性 無時間性の概念である
時間の中に求める。非時間性の空間ではなく、非空間性としての時間でアプローチ
関根→現象学的に批評されている
(自己存在の疑問)→(観念の抽象化)→現象学的世界に疑問がある
時間の中の人間 その中の思考
近代以前にある時間の概念 物質的時間と絶対的時間
ものが持っている全体を離れた時間
対象化される美ではなく、自己の中にある美
観念の抽象化 瞬間、瞬間を個々に時として提出
成田 美術が幻想である。これも幻想で→美術は体制の中での幻想である。
臼田 ?
山崎 場→観念としての場 実体としての場←→観念としての場 を区別
相対的な時間 つくれない
どのように我々自身があるのか
池田龍男→何月何日のオリオン座 指定は一回だけで終わり
時間の中では一回限り 時間に対しての境界 その時その時に還元される。
芸術も美術も一つのプロセスでしかない。
美術が幻想として存在し得た場合
ニルバーナ→過程で解き放つことを拒否
西洋→過程としてとらえる
中原 議論は終焉に縛られていて、ナンセンスをクローズアップした。
ボイス→アンチイルージョン